主日の福音10/12/12(No.506)
待降節第3主日(マタイ11:2-11)
イエスは今も「漁をしなさい」と呼びかけます

言うなと口止めされていますけど、やっぱり今日は昼ご飯の話から入りたいと思います。木曜日に電話がかかりまして(木曜日って、しばしば何かが起こる日ですね)「○○です。昼ご飯を有川に食べに来ませんか」と声がかかりました。

わたしは心の中では、「なんぼなんでも、昼ご飯を食べるのに有川まで走らんばいかんとやろか(有川までどうして行かなければならないのだろうか)」と思っていました。それでも、ここで断ったりすれば、後々の付き合いが悪くなるかもしれないと思い、「じゃあ行きます」と返事をしたのです。

返事をしたのはいいのですが、わたしは朝から賄いのシスターがお出かけすると言うので、「じゃあわたしでも準備できるうどんをたいて、魚を焼いて食べるから」と伝えていました。台所に行くと、やはりうどんが1人分置いてありまして、書き置きにも「お魚は冷蔵庫にあるのを焼いてください」と指示されていました。

せっかく準備してもらっているのに、悪いことしたなぁと思いつつ、筆ペンで「事情が変わり、有川でご飯を食べることになりました」と書き置きをして有川に出発しました。帰ってきたら、シスターはどう思うだろうか、それにしても有川では、何人くらい集まって昼ご飯を待っているのだろうか。そんなことを思いながら、有川のエレナの道向かいの食堂に入ったのです。

畳の部屋に通されました。メンバーを見て、わたしは腰を抜かしました。事情があって外で食べることになりましたとお詫びを書いたその当人が、テーブルに座っているではありませんか。電話をかけて誘ってくれた人を含め、テーブルには4人いましたが、「なんでわっどみがおっとな」と、正直思いました。出発前にお詫びのメモを書いて損したとも思いました。

まあひとしきりおしゃべりしながら昼ご飯をごちそうになりまして、また有川から浜串に戻ります。戻りながら、わたしは今日の福音朗読箇所を重ねて考えることにしました。イエスは群衆に3度、次のように問いかけています。「何を見に行ったのか。」

わたしは確かに、何かを見て、帰って来ているわけですが、何を見て来たのだろうかと、帰り道に問い直してみたのです。ご婦人と、賄いシスターを見に行ったのだろうか。有川まで行ったのですから、それでは元が取れません。食事中の楽しい会話でしょうか。楽しい会話も、有川でなくても可能でしょう。

「では何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。」(11・9)福音朗読箇所では、イエスさまがヨハネのことを、「預言者以上の者である」と仰いました。預言者は、来るべきお方について預言をするところまでです。

けれども洗礼者ヨハネは、来るべきお方を「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(ヨハネ1・29)と指し示すことまでした人です。洗礼者ヨハネの呼びかけを心の底から受け入れた人は悔い改めの洗礼を受けました。

一方、信じようとしなかった人は、洗礼者ヨハネを信じないばかりか、彼が預言し、指し示したイエスをも信じませんでした。遠く離れた荒れ野に出かけて、預言者以上の者を見たと気づいた人は、生活を大胆に神に向け直すことができたわけです。

そこで、振り返ってわたしは有川までご婦人がたに引っ張り出されて何を見たのかと考え直したときに、婦人会の「あっどみ」以上の者を見た、そういう答えにたどりつきました。では、「あっどみ」に、「あっどみ以上」の何を見たのでしょうか。

洗礼者ヨハネのもとに集まり、悔い改めの洗礼を受けた人々は、洗礼者ヨハネの向こうにおられる救い主、まだ見ぬ「来るべきお方」を見たのでした。わたしも、お昼をごちそうしてくれた婦人会の人たちの向こうに、来るべきお方を見たと感じました。

なぜかと言うと、もし洗礼者ヨハネの呼びかけに応じなかったなら、人々は来るべきお方に導いてもらえなかったわけです。同じようにわたしも、あの時面倒くさがって昼ご飯にお呼ばれしなかったら、婦人会の人たちの向こうにおられる「仕えられるためではなく、仕えるために来た」お方に、出会うことができなかったと思うのです。

わたしたちの救い主は、誰も考えられないような場所にやってきて、お生まれになりました。預言者イザヤは、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7・14)とは言いましたが、それが、家畜小屋で、飼い葉桶に寝かされている乳飲み子であるとは、想像できなかったことでしょう。

もしイエスが今ここに現れて、「どこそこに行きなさい」と言われた時、それがどんな場所であれ、「嫌です」とは言えないはずです。どこにでも行きなさい。どこででも、あなたは仕えなさい。そのことを教えるために、有川で婦人会の「あっどみ」のところまで行き、婦人会以上の者を、見せてくださったのだと思います。

神は今週、わたしたちに出来事以上のものを読み取るよう、目の前にいる人物を通して、その向こうの存在をはっきりとらえるようにと、呼びかけているのではないでしょうか。目の前に繰り広げられている出来事や、目の前に立っている人物だけに気を取られていたら、神がもっと大きなことを教えようとしていても見落としてしまいます。

先週きちんと整えられた馬小屋を見てください。この馬小屋の飼い葉桶に、まだおいでにはなっていませんが、必ずおいでになるお方が見えているでしょうか。もうすぐおいでになると、期待に胸が膨らんでいるでしょうか。

洗礼者ヨハネは、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(11・3)と尋ねさせました。わたしたちに、「何を見に行ったのか」と問いかけ、「預言者以上の者である」との深い意味を教えてくださるのはイエス・キリストだけです。大きな期待を胸に、ご降誕までの日々を過ごすことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(マタイ1:18-24)
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