主日の福音10/12/05(No.505)
待降節第2主日(マタイ3:1-12)
預言者の声を生活に響かせよ
待降節第2主日に教会の典礼は、洗礼者ヨハネを登場させます。もし覚えてくださるなら、来年の待降節にも思い出してください。第2主日には洗礼者ヨハネが登場するのです。そして、今日の福音朗読にあるような声を、人々に響き渡らせるのです。
「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」(マルコ3・1-2)わたしはこの言葉を繰り返し自分に言い聞かせて、次のように考えてみました。「洗礼者ヨハネの声は、今の時代に本当に聞こえているだろうか。」もちろんわたしは、「洗礼者ヨハネの声は、今の時代にも響いている」と思いたいです。
今日は「宣教地司祭育成の日」でもあります。1週間前、修道会の神父さまで久保神父さまという方が浜串に滞在していましたね。神父さまは、アフリカで宣教をしておられるということでした。3年に1度、休暇を取って日本に戻ってくるそうですが、見方を変えると、3年間は、日本に帰ってこないわけです。
わたしは、この久保神父さまとしばらくお話をして、ミサを一緒にささげて、この神父さまの声が、アフリカで響いているのだなぁと思いめぐらしました。日本人の神父さまが、アフリカの地で、「悔い改めよ」という声を響かせているのだと感じました。
もちろん、わたしがアフリカに行って、久保神父さまが宣教している様子を確かめて来たわけではありません。けれども、「悔い改めなさい」という言葉そのものを言うことが、洗礼者ヨハネの使命だったのではないと思います。
むしろ、洗礼者ヨハネの使命を預言するイザヤ書の引用「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」この思いが届いていれば、それは洗礼者ヨハネの使命が果たされていると言えるのではないでしょうか。
では、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」とは、どんな態度を表しているのでしょうか。わたしは、神に従う生き方を曲げないで生きるということだと思います。神にまっすぐに従う。それが、「主の道を整える」態度です。
そこからすると、わたしたちも生活を見渡して、洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」と言う言葉が響いているか、よく吟味する必要があります。神さまの前に、今日しなければならないことを、「今日は疲れているから、明日しよう」と考えるのは、主の道を曲げる生き方だと思います。
まずは、わたしの身の回りで、神にまっすぐに従うように、道を整えたいものです。わたしはよく小学生のゆるしの秘跡で、3つの場面を考えなさいと言います。1つ目は、家庭での過ごし方です。道をそれなかっただろうか、考えさせます。2つ目は、学校での過ごし方です。学校が、ある意味で一番長く過ごしている場所ですから、神さまの望みにそれなかっただろうか、考えてもらいます。3つ目は、出かけた先でのことです。
この3つは、2つ目を仕事場でと置き換えると、大人の信者にもあてはまると思います。この3つを振り返って、「道を曲げていたら、道を整えよう」と考えると参考になると思います。そして今日は、中学生高校生にも、「道を曲げていたら、道を整えてほしい」と呼びかけたいと思います。
学校で、本心ではない態度を取ることはないでしょうか。クラスの中で、だれかが仲間はずれになっているとしましょう。そのクラスの中で、仲間はずしにする流れに同調せずに、「わたしは、神さまへの道を曲げません」と、きっぱり態度で表しているでしょうか。
とても勇気のいることですが、ここで譲ってしまったら、「悔い改めよ」という声に耳をふさいでしまうことになります。そうなることのないように、学校生活を神さまにまっすぐに従うつもりで過ごしてほしいのです。中学生高校生にとって、「わたしは道を曲げません」という毅然とした態度を取ることが、洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」という声を響かせることになると思います。
洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」という声は、主の降誕を準備するこの時期、すべての人に響き渡らせるべき声です。わたしの身の回りで、わたし自身の心の中で、そしてまだ神さまを知らないでいる身近な人々の中で、響き渡らせましょう。わたしたちはそのために、先に洗礼者ヨハネの言葉を聞いたのです。より多くの人の中で、神にまっすぐに生きることが喜びとなるように、今日のミサの中で願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(マタイ11:2-11)
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