主日の福音10/11/28(No.504)
待降節第1主日(マタイ24:37-44)
すべての人のために、救い主を待つ
木曜日に、250ccのバイクで青方に行ったのですが、中ノ浦に抜ける山道の途中でスリップしまして、バイクと一緒に転倒してしまいました。山越えして中ノ浦に出る人は説明すればすぐわかる場所ですが、浜串から中ノ浦に峠を降りていくと、左に出る道と右に出る道に分かれます。
青方に向かっていたので、右に曲がり、出口に向かっていました。右に曲がってすぐに、今度は左カーブです。そのカーブで膨らんでしまって、あわてて後輪のブレーキをかけたら、右端の泥の塊のところでスリップしてステーンと転んだわけです。
転倒した時、バイクに挟まれたまま泥の塊で1メートルほどスリップしました。すねを擦りむきましたが、幸いに頭も打たず、骨も折れず、無事に帰ってこれたのが不思議です。転倒直後、自分の後ろから車が2台やってきましたが、車にひかれなかったことは、神さまに守ってもらったんだなぁと思いました。
今日の日曜日のために、いのちの大切さ、特に出生前のいのちの大切さについて説教で触れなさいと、大司教さまから小教区の司祭たちに通達が来ていました。いのちは、自分で守れないことがあります。特に、出生前のいのちは、母親が守ってくれなければ、自分で自分を守ることができません。
今年の教会暦の始まり、待降節第1主日に、いのちの大切さについて考えることは、大変意義深いと思います。救い主は、幼子としてお生まれになります。幼子は、母マリアの胎内で、準備の時を刻みます。わたしたちが救い主を待つ間、まさに救い主は出生前のいのちなのです。
ほかの胎児と同じように、自分で自分の命を守れない、弱く小さな姿に、救い主は置かれています。その命を大切に見守り、誕生を待ち望みます。救い主の誕生を、いのちの大切さという見方で考えるとき、わたしたち自身にも深くかかわってきます。わたしたちはみな、待ち望まれて生まれてきているからです。
わたしのもとに、よく来てくれた。わたしの孫として、よく来てくれた。一人一人が、そうやって待ち望まれて生まれたことを知っていますから、救い主の誕生にも、同じ思いを向けてみましょう。わたしたちのもとに、おいでくださることをよく決断してくれました。感謝申し上げます。わたしたちは、あなたがおいでくださることを、心待ちにしています。こんな気持ちが心に湧いてくるなら、待降節の過ごし方は素晴らしいものになるでしょう。
ところで、救い主の誕生を、冷ややかに見ている人もいます。日本では、クリスマスという言葉を知らない人はいないと言ってもよいくらいですが、クリスマスが救い主の誕生を祝う日だということを知っている人は、あまりいないのです。
驚くかもしれません。けれども、クリスマスという言葉だけを知っている多くの日本人にとって、クリスマスに必要なものはクリスマスプレゼント、ケーキ、サンタクロース、クリスマスツリー、これくらいなのです。
カトリック教会が準備する時期よりもはるか先に、クリスマスの商売のために世の中は飾りたてています。まさに、今週の福音朗読にある通りの有様です。「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。」(24・38-39)
「何も気がつかなかった」と言っています。何も気がつかずに、日々を過ごし、クリスマス当日も過ぎていくのです。救い主の誕生の抜けたクリスマスを祝う人々は、クリスマスが終わると初売りのために飾りを取替えようと大忙しです。
ここで、イエスのもう1つの忠告が響きます。「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」(24・40-41)
救い主を待つ人は、救い主の到来の日に残って留まることになりますが、救い主を待っていない人、クリスマスを祝っていながら、救い主を迎えない人は取り去られ、いなくなるのです。
クリスマスという、同じ言葉を口にしている二人のうち、一人は連れて行かれ、もう一人は残されます。この重大な事実を耳にした時、わたしたちはただ自分たちが救い主を待つだけでよいでしょうか。とてもそうは思えません。救い主を待ちながら、クリスマスの準備をしませんかと、人々に語りかける必要があるのではないでしょうか。救い主の到来に、一人でも多くの人を招くべきではないでしょうか。
バイクで転倒した同じ日、奈良尾病院で面白い人に会いました。違う小教区の信者さんで、26歳で洗礼を受けたというお父さんでした。この方は、地域の人に「教会に行ってみませんか」と積極的に誘って、今現在8人が、教会のミサに出席しているのだそうです。
その人々に、「祈りはそんなに難しく考えなくてもいいのだよ」とか、「最低限の教えは、覚えてもらうことになるけど、教えを学ぶと、神さまがわたしたちを愛してくださっていることがよくわかるよ」とか、わたしよりもわかりやすい教え方で、教会に誘っている人に救い主をお迎えする準備をさせていると話していました。
肺炎で病院に入って、自分が誘った人たちがどうしているか心配でたまらないと、自分の病気以上に教会に導こうとしている人々のことを心配しているのです。わたしは15分以上その人の話に耳を傾けていましたが、頭の下がる思いでした。本当に面白い人でした。次のお見舞いの時に、まだ入院していたら、もう1度会いたいなぁと思っています。
救い主の到来を待つことには、特別な意味と価値があります。すなわち、幼子としてこの世においでになる救い主を待つことは、わたしたちの命の大切さを改めて考えることにつながります。わたしたちはみな、待ち望まれていたいのちです。同じように、救い主も待ち望まれておいでになるべきです。信じているわたしたちはもちろんですが、信じていない人々も、いつか信じてくれるように、働きかけるのです。
そして、救い主を待ち望まないクリスマスは、どんなに華やかな飾りがあっても価値がありません。救い主の到来がわたしたちの最大の関心でなければ、クリスマス飾りは何もわたしたちにもたらしてくれません。わたしたちの救い主を待つ姿勢が、クリスマスの意味と価値を人々に証しするものとなるよう、証しの力を願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(マタイ3:1-12)
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