主日の福音10/10/31(No.500)
年間第31主日(ルカ19:1-10)
ザアカイがアブラハムの子となったように

寒くなってきましたねー。学生たちが浜串教会前のバスに乗って学校に登校する様子を、司祭館の玄関に立ってできるだけ見送るようにしていますが、「神父さまー。寒くないですかー?」と声をかけてくれる小学生がいました。嬉しいなぁと思っていますと、「神父さまー。頭は寒くないですかー?」と言い直したので機嫌を損ねまして、「寒いに決まってるだろ」と大人げない態度を取ってしまいました。

今週の福音朗読箇所は、「徴税人ザアカイ」の物語です。ザアカイは「徴税人の頭で、金持ちであった」(19・2)とあります。徴税人ですから、嫌われてはいたでしょうが、世間的には成功した人と考えてよいでしょう。十分に豊かな人であれば、普通は、何不自由なく暮らしているはずです。けれども彼は、「イエスがどんな人か見ようとした」(19・3)とあります。

十分満ち足りた人であれば、イエスを見物しなくてもよいはずです。最後にはどうしても見たくてたまらなくなって、「走って先回りし、いちじく桑の木に登った」(19・4)のでした。つまり、ザアカイは豊かだったのに、心の中に何か虚しさがあって、それを満たしてくれる人を捜し求めていたのでしょう。イエスがその人かもしれない。そう思ったから、人目もはばからずに木に登ってイエスを捜し求めたのです。

実はイエスも、ザアカイを捜し求めていました。ザアカイ個人を捜し求めていたというよりも、ザアカイのように、心に満たされないものを抱えている人を捜し求めていたのです。ですから、イエスはザアカイに急接近します。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19・5)

ザアカイがイエスを迎えて、どのような会話を交わしたかはわかりません。けれども、彼がどんなに豊かであっても手に入らなかったものが、イエスを迎えた時に手に入ったであろうということは十分予想できます。それは一言で言うと「救い」ということです。これまで、「救いが与えられた」「救われた」という実感はなかったのですが、イエスと交わった時に、救いを実感したのです。

ただし、そこには手放しで喜べない事情もありました。周囲の人々は、「罪深い男のところに行って宿をとった」(19・7)イエスが、理解できなかったのです。徴税人のような罪人が、救いに招かれるはずがない。当時の人々の理解はそのようなものでした。イエスはザアカイを次のように人々に示します。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(19・9-10)

イエスによれば、ザアカイは「失われたもの」でした。「失われたもの」とは、救いを求めていながら、罪の弱さのために神を見失い、探し出してもらうまで捜し求めている人」のことです。それは、100匹の羊のうちの見失った1匹であるし、神殿で祈った2人の人のうち、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください。」(18・13)と祈った徴税人とも重なります。神に探し出してもらおうと、叫んでいる弱い存在なのです。

ザアカイは、自分がイエスに探し出してもらい、救われたことを感謝して、人々の前で自分の取るべき態度を表明します。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(19・8)

これはザアカイの寛大さの表れでもあると思いますが、もう少し考えると、「貧しい人々」を含む「弱い立場にある人々」が、希望を得て神を捜し求めるために力を尽くしたいという気持ちの表れではないかと思うのです。

打ちひしがれ、うつむいている人々が、神を捜し求め、神に探し出してもらうために、わたしは力になりたい。自分が経験した救いに、多くの人が触れてもらえるように、そのために自分の生き方を転換したい。そんな態度表明ではないでしょうか。

わたしたちを振り返ってみましょう。ザアカイが示した態度は、わたしたちに何かを教えてくれるかもしれません。彼は、自分が探し求めている間に、イエスが見つけ出してくれて、救いに招いてくれました。

もしわたしたちが、罪をゆるされ、イエスに探してもらって、救いに招かれた人間であるなら、今ザアカイと同じ態度を表明するように求められているのではないでしょうか。ザアカイが、自分の経験した救いに、多くの人が触れてもらえるように力になろうと決心したように、周りの人に、「あなたも、イエスさまが探している人です。イエスはあなたを探し出して、救いに招こうとしています」と呼びかけましょう。

呼びかける言葉はいろいろあると思います。どこにも心の平安を見つけることができないでいる人に、「あなたは、イエスに心の平安を求めたことがありますか?もしイエスに求めたことがないなら、思い切って心の平安をイエスに願い求めてはどうですか?」こんな呼びかけもできるでしょう。

何かが足りないと感じている人は、たくさんいます。わたしたちが、イエスによって救われたと心から信じるなら、何かが足りないと感じている人に語りかけるべきです。「あなたに足りないもの、それはイエス・キリストです。」もしこのように言うなら、わたしたちは大きな働きを世に対して果たすことになります。

イエスは、捜し求めている人を捜しています。弱さの中にいて、探してもらうしかない人々を、訪ね回っているのです。訪ねていくために、わたしたちの手足を必要としています。わたしたちが、社会の隅々にまで、「イエスがあなたを捜しています」というメッセージを伝えることができるよう、このミサの中で証しの力を願い求めましょう。
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‥次の説教は‥‥
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(ルカ20:27-38)
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