主日の福音10/10/24(No.499)
年間第30主日(ルカ18:9-14)
祈りによって自分が何者であるか知る

先週は同級生の神父さまに主日のミサをすっかりお任せしました。にわか主任司祭の体験を積んでもらおうという計画でしたが、よくよく話を聞くと、7年前から横浜教区の津久井教会で、月に1度くらいミサに呼ばれて主日のミサを捧げているのだそうです。あー、それなら、わたしも3つの教会のうち1つくらいは自分で説教をすればよかったなぁと、今になって後悔しております。

1つだけ、内緒話をしますと、いつも通りの順番で、高井旅教会→福見教会→浜串教会の順でミサを捧げたのですが、高井旅教会は夕方の5時から始めて、だいたい45分を目標にしてミサを捧げています。前もってそのことを伝えておりましたら、高井旅教会ではきっちり45分で、ミサを終えてくれたのです。

「すばらしいなぁ」と声をかけましたら、「奇跡だねぇ」と答えてくれました。あー、これなら残る2つの教会も、問題なく終われるだろうと思っていたのです。福見教会は高井旅教会で45分でミサを終えた直後でしたから、1時間きっかりでミサを終えたのですが、浜串教会はちょっと長かったですね。

わたしは3回とも説教を聞いたので原因は分かっていますが、説教の途中でハラハラして、何度も時計に目をやりました。自分が赴任してきた当初のことを棚に上げて言うのもなんですが、カトリック教会の信者さんは長い説教には慣れていませんから、長くなるといろいろ後ろが閊(つか)えてしまって、どうしても落ち着いて話を聞くことができないようです。

わたし自身は、「説教は10分で十分、12分で十二分」というのがモットーです。もちろん守れないことも多いのですが。

今週の福音朗読に入りましょう。祈るために神殿に上がって来た2人の人のたとえ話です。1人はファリサイ派の人、1人は徴税人でした。ファリサイ派の人と言えば、当時の宗教指導者層であり、知識に長けていた人です。一方の徴税人は、占領しているローマに納める税金を徴収し、規定以上のものを取り立てては、自分の懐を肥やしていた人でした。イエスはこの2人のうち、義とされて家に帰ったのは徴税人であると言い切りました。

どちらが正しい人か、という問いであるならば、ファリサイ派の人が正しいということになります。ファリサイ派の人の言い分はこうです。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(18・11-12)単に正しいだけではなく、普通の人ができない犠牲まで払っているのです。

それでも、イエスはファリサイ派の人の祈りを義としませんでした。これだけのことをしているから、正しい人に決まっている。罪深い生活とは一切関わっていないのだから、正しい人に決まっている。ファリサイ派の人は、そう考えて祈りを捧げていました。

他方徴税人は、神に報告できる正しい行いが何一つないことを知っています。ですから、こう祈る以外にないのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(18・13)神さまに誇るものが何もない。幸いなことにそれが、義とされて家に帰るきっかけになりました。

神さまに誇るものがある人と、神さまに誇るものがない人。両者はどう違うのでしょうか。それは、誇れるものがある人は、どうしてもそれを頼りにしてしまい、誇れるものがない人は、神に頼ることになる、その点の違いだと思います。

中田神父は、思い出せばいくつも、自分で誇りに思っていることがあります。3つ例を挙げれば、録音された聖書のCDを使って、ある小教区で聖書の通読会を行った経験があり、その時は何人もの人が、旧約聖書・新約聖書をすべて、通読しました。録音したCDを教会に集まって毎日聞いたのですが、これはうまく行きました。

また、こうして話している日曜日の説教は、ブログやメールで多くの人に読まれています。メルマガでの活動も、今週の説教が499回目になりました。来週で500回になります。これも、まぁうまくいったほうだと思います。

それから、前任地では偶然にも司祭館建設の場面に巡り合わせまして、当時の信徒と一緒になって、司祭館を無事に建て替えました。浜串教会の前任者は、今その司祭館で過ごしているわけです。わたしは釘一本、壁板一枚作業を手伝ったわけではありませんが、形の残る物ができたなぁとは思います。

とまぁ、自分に頼ってしまう材料があるわけですが、それではなかなか神に受け入れられる祈りはできないということです。むしろ、「わたしは神に見てもらうものが何もない。」そんな人が、神に受け入れられる祈りを捧げる可能性が高いのです。

もう一度、徴税人の祈りを振り返ってみましょう。彼は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。」(18・13)となっています。遠くに立ちましたが、彼の心は神の近くにありました。目を天に上げませんでしたが、心は神と向き合っていました。胸を打ちながら、打ち砕かれた心を神にさらけ出していたのです。

徴税人はきっと、自分の罪深さを悲しみながら帰って行ったのでしょう。それは、神の心を揺さぶったのだと思います。祈りを義とするのは神です。人間的な正しさで祈りが義とされるとは限りません。自分が罪の中にあることを正直に悲しむ。その人間らしさが、神に好まれたのではないでしょうか。

自分に頼れるものがあることはすばらしいことです。けれども、神さまの前に自分は何者でもないと本当に思える人は、もっとすばらしいのです。浜串の漁港にたくさんの漁業船が停泊していました。乗組員は今、次の出向を前に、休息していることでしょう。

これからまた荒海に立ち向かう乗組員全員が、「神に頼るのでなければ、わたしたちは何者でもない」と、神の前に自分をさらけ出して祈りをささげ、出発してほしいなぁと思っています。また家族の皆さんも、一緒に祈ることで、皆が神に自分をゆだねて生きる家族となれるようになってほしいものです。

「自分はこれだけのことをしている人だ」と、神さまを振り向かせようとする祈りではなくて、「わたしは自分には頼りません。すべて、あなたに委ねます」という思いが詰まった祈りを捧げる人になりたいものです。そのための恵みを、このミサの中で願い求めましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第31主日
(ルカ19:1-10)
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