主日の福音10/10/17(No.498)
年間第29主日(ルカ18:1-8)
その働きが、神に喜ばれるために

今週の説教は、「幻の説教」となってしまいました。この説教は、小教区の誰も、聞くこともこの原稿を読むこともないのです。実は今週、懐かしい同僚司祭がわたしを訪ねてくれて、主日のミサをすべてお願いしているからです。

S神父と言いますが、彼が長崎に来るという日程を聞き、「長崎で訪ねてみたい人はたくさんいるだろうけれども、もしよかったら五島に来てくれないか」と連絡を取ってみました。するとS神父は、快く引き受けてくれましたので、ついでに、「せっかくなら、1日主任司祭も引き受けてくれないか」とお願いしたのです。

S神父は修道会の司祭です。そのため、おそらく、小教区に赴任して主任司祭になるという経験は回ってこないと思います。そこで、1日だけですが、主任司祭の務めを引き受けてもらいたいと打診したのでした。彼はこの依頼にも喜んで応じてくれました。

おかげでわたしは、楽チン楽チン・・・と思っていたのですが、金曜日の時点で、無事に務めを果たしてもらえるか心配になってきて、かえって気疲れしそうな心配が出てきております。ただ、ここに書かれている中田神父の思いも、すべてメルマガの読者、ブログの読者だけのものになるかもしれません。

今週の福音朗読箇所には、イエスがたとえを話すにあたって、どんな狙いを持って話したのかがはっきり示されています。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」(18・1)わたしたちも、ここから道をそれることなく、今週の学びを得る必要があると思います。

「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」この狙いを、わたし自身が身近に感じたことがあります。それは、伊王島の馬込教会時代に経験した司祭館の建設です。長く歴代の主任司祭が住み続けた司祭館に別れを告げ、いよいよ新司祭館を建設することが信徒総会で了承されました。わたしはその時、ある教会でのことを思い出していました。

それは、長崎本土にある滑石教会のことです。滑石教会も、わたしが助任司祭で赴任した時に、教会が手狭になっていると皆が感じ始め、新しい教会が望まれていました。滑石教会の当時の主任司祭も、教会建設の必要性を十分把握していました。

その主任司祭は、わたしがお世話になっている1年の間に、肺炎でお亡くなりになったのですが、お別れする前に、教会建設について一言だけ、わたしに忠告してくれたことがありました。「教会は、祈らんば(祈らないと)建たんとぞ(建たないんだよ)。」

時々、新しい教会について教会役員と意見を交わしたりすることもあったようで、わたしも大変だろうなぁと経験はなくても気にはしていました。ただわたしの頭の中では、資金や、用地、業者の問題、また信徒が快く同意してくれるだろうかといったことくらいしか思い浮かばなかったのです。

もちろん、主任司祭は助任司祭のわたしも新しい教会に関心を持っていることを知っていました。そんな中で、「教会はな、祈らんば建たんとぞ」これだけを忠告して、新しい滑石教会を見ることなく、神に召されていったのです。

それから7年後に、わたしに司祭館建設に携わるチャンスが回ってきました。わたしの中で、とても大切にしてもらった滑石教会時代の主任神父さまの声が、わたしの心の中で響いていたのです。「司祭館も、祈らなければ、建たない。」

それはつまり、「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。」(詩127・1)ということなのです。計画の始めから終りまで、神に守られ、神に支えられた事業でなければならないということなのです。

わたしはついに、主任司祭の教えを実行する時が来たと思いました。司祭は建築家でも設計技師でもありませんから、祈ることで司祭館の完成を手伝う。わたしはそう心に決めたのです。幸いに、司祭館は立派に立ち上がりました。あの司祭館建設時代、不便もありましたが、今週の福音の教えにあるように、気を落とさず、絶えず祈った気がします。そうする以外に、わたしにできることがなかったのです。

新しい司祭館に住み始めてしばらくして、喜ばしい便りが届きました。新しい滑石教会と司祭館が、無事完成したのでした。本格的に着工が始まると聞いたとき、確か馬込教会の司祭館は新しくなっていたと思うのですが、その日から新たに、滑石教会と司祭館の建設のために祈りました。

わたしがお世話になっていた時代からおよそ10年かかりましたが、神によって建てられる真の神の家となることを願って、祈りました。ですから祝賀会に参加したときは、特別嬉しかったのを覚えています。

今週のたとえ話に社会的に不利な立場にあるやもめが不正な裁判官を相手にしていますが、彼女は、どんなに裁判官が公正さに欠けていても、自分の権利を守ってもらうためにあきらめませんでした。わたしはおそらく、彼女もその初めから、神に祈って自分を守ってくれるよう願いながら、これでもかと裁判官のもとに通ったのではないかと思うのです。

取り合ってくれない、周りにだれも協力者がいない。そんな中でも、神が守ってくれる。神が、この世の裁判官を動かしてくれる。そう信じて、あきらめなかったのではないでしょうか。彼女が見せた強さは、祈りに支えられた強さだと思います。そう考えてみると、わたしも彼女の態度が理解できるのです。

気を落とさずに絶えず祈る時、必ず道は開けます。わたしもそれを経験しました。わたしたちが今身近に控えている大きな出来事としては、2年後に小教区の中の福見教会と高井旅教会が、それぞれ100周年と50周年を祝おうとしています。大きな行事ですので、その重さに押しつぶされそうになるかもしれません。

けれども、わたしたちは神が自分たちの教会を支えてくださったことを祝おうとしているのですから、神に祈りつつ、この日の準備を進めていきましょう。神が、それぞれの教会を100年、50年見守ってくださったのだという感謝を、わたしたちなりに捧げる日として、計画を練りましょう。

そうすれば、単なる行事に終わることなく、喜びの日として迎えることができるに違いありません。気を落とさず、絶えず祈るようにとの主の教えを、ここでも発揮したいものです。
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‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(ルカ18:9-14)
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