主日の福音10/10/10(No.497)
年間第28主日(ルカ17:11-19)
すべてに感謝できるお方はただ一人

間違い電話は、よくある話ですが、わたしは1度だけ、間違い電話の人と付き合ったことがあります。まぁ、付き合ったと言っても、デートして食事をしたりとか、そういう付き合いではなくて、間違い電話のあとも、しばらく電話の相手をしたことがある、その程度の付き合いです。

深夜に、電話が掛かってきました。当時、主任司祭を始め、その教会には4人の司祭がいて、わたしは一番若い司祭だったので、基本的にすべての電話を取る必要がありました。深夜に電話が掛かってくれば、まずわたしが電話を取るわけです。

その電話は、若い女の子で、中学を卒業してから高校に行っていない子でした。本人はてっきり、自分の彼氏に電話を掛けているつもりだったらしく、「もしもし」と言ったらいきなりまくし立ててきました。日頃あまり話を聞いてもらえないのか、よくまぁ間違えている相手にこれだけ話せるなぁと、しばらく感心して聞いていたのです。

「あのね、電話間違ってるけど。」すると、その女の子はびっくりして、すぐ謝りました。ただわたしは面白かったものですから、「大変だね。良かったら続きの話、聞くよ」と言ったのです。それから2時間くらいは話を聞いていました。

話を聞いてもらって、嬉しかったのか、また電話していいかと言うものですから、あーいいよって、返事をしたのです。まだ若かったので、深夜に電話が掛かっても次の日の仕事に響いたりはしない時代でした。1ヶ月くらいは続いたでしょうか。その後は安心して、ピタッと電話はやみました。

女の子の電話の相手をしていて、こんなことを思ったのです。どんな人でも、自分がここにいるということを、必死になって知らせたい、知ってもらいたい、分かってくれる人がいてほしい。人は自然に、自分を分かってくれる人を求めるんだなぁ。そんなことを感じました。

さて福音朗読ですが、重い皮膚病を患っている十人の人が、イエスに憐れみを請い求めています。当時の習慣によると、重い皮膚病と診断された人は、社会から切り離され、礼拝にも参加できず、共同体の交わりに加わることができませんでした。健康な人が重い皮膚病の人のそばをたまたま通るときは、重い皮膚病の人たちは大声で「わたしは汚れた者です。わたしは汚れた者です」と叫んで、知らせなければならなかったそうです。

こうした決まり事は、さらに重い皮膚病の人を追い詰めていただろうと思います。先ほどの例でも触れましたが、誰もが、自分を分かってほしい、自分を知ってほしいと思うのに、当時の決まり事は、自分たち病気の人を避けるように、関わりを持たないようにと仕向けていたからです。

そこへ、イエスが通りかかりました。本来なら、「自分たちを避けて通ってください」と大声で叫ばなければならない決まりがありましたが、それさえも放り出して、「イエスさま、わたしを憐れんでください」と叫んだのです。自分を知ってほしい、自分を分かってほしいと、大声で叫びました。

この重い皮膚病を患っている人々は、どこかで、イエスの噂を耳にしていたのかもしれません。自分たちを分かってくれるのは、この人しかいない。だから、必死になって、自分のことを訴えかけたのでしょう。

イエスは彼らの訴えに耳を傾けました。つまりイエスは、すべての人、たとえ社会から切り離されている人でも、自分を知ってほしい、自分のことを分かってほしいと思っているのだと十分理解していたのです。わたしたちもある程度は分かっているでしょうが、イエスは人間の奥深くからの願いを、知っていたのです。

イエスが彼らの訴えを聞いて、何も特別な動作はしませんでしたが、奇跡的な働きかけをしてくださり、彼らの病気はいやされました。問題はここからですが、十人のうち一人だけ、サマリア人だったとされていますが、イエスのもとにかけより、感謝を捧げたのです。おそらくユダヤ人と思われる残りの九人は、イエスに感謝しに戻らなかったのです。

わたしはこう考えました。イエスに自分のことを知ってほしいと十人とも願ったのですが、イエスしか、自分の置かれた状況を理解できる人はいないと感じていたのは一人しかいなかったのではないでしょうか。なぜなら、残る九人は、ユダヤ人でした。ユダヤ人は、ユダヤ人の社会に戻ることで、多くの人から一定の理解を得られる可能性があります。

ところがサマリア人は、ユダヤ人と敵対関係にありましたので、たとえ健康を取り戻しても、社会的には孤立してしまう可能性があったのです。ほかに何も頼るものがない。そういう中で叫びを上げ、自分を知ってくださった唯一のお方に、感謝を捧げに来たのではないでしょうか。

この出来事からわたしたちが学びたいことは、「イエスだけが、わたしの拠り所です。」そんな気持ちが、わたしたちの信仰にあるでしょうか、ということです。信仰は持っているけれども、どこにでも拠り所があって、イエスだけを拠り所にしているわけではない。それがわたしたちの生活の現状ではないでしょうか。

だれでも、見られたくない部分は人に隠そうとします。それは家族に対しても、一緒に生活している人に対しても同じでしょう。そんな中で、わたしの良い点も悪い点も、すべてを打ち明けて拠り所にしたい。そんな相手はどれだけ身近な場所を探しても見つかりません。すべてを知ってもらうことができるのは、イエスのほかにいないからです。

感謝しに来たサマリア人は、イエスを自分の唯一の拠り所と理解していただけではなく、すべてを感謝できる唯一の相手としても理解していました。わたしが受けているもの、良いものも悪いものもすべてを感謝できる。イエスに対して、あらためてそのような信仰を呼び起こすことができるよう、このミサの中で恵みと力を願いましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(ルカ18:1-8)
‥‥‥†‥‥‥‥