主日の福音10/10/03(No.496)
年間第27主日(ルカ17:5-10)
たとえからし種一粒ほどでも十分

福音朗読のたとえ話の中には、心を打たれる話、なるほどと感心する話もたくさんありますが、「それはどうかなぁ」というものもあります。中田神父が、「それはどうかなぁ」と考えている個所とは、朗読の最初の部分です。

「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(17・5-7)

果たして、桑の木が、「抜け出して海に根を下ろせ」と言って、言うことを聞くものなのでしょうか?にわかには信じられません。桑の木が一体どうやって?と考えてしまうのです。みなさんは、「イエスさまがおっしゃったのだから、そうなるのだろう」と疑いもなく信じるでしょうか。

そこでわたしは、「これはもののたとえなのだ」と受け止めて考えることにしました。このたとえに込められている思いが実際に実を結ぶなら、このたとえは成り立つのではないでしょうか。そこでこのたとえに込められている思いは何か、ということを考えることにしました。

まず、桑の木です。背が高くなる木だそうで、15メートルにも達するものがあるようですが、普段見かけるのは数メートルの高さのものとされています。背が高くなる木なのですから、おそらく、土に深く根を張る植物なのでしょう。

この深く根を張る植物が、抜け出して海に根を下ろすというのは、たとえとして、「抜けないくらいに根を張ったものが、まったく違う場所で生まれ変わって生き始める」ということではないでしょうか。この考えに沿って、身近な例を考えてみましょう。

たとえでは、「抜け出して海に根を下ろせ」と言われていますから、簡単には抜け出せないものが、思い切って抜け出して、まったく違う場所で根を下ろすことが考えられているのでしょう。簡単には抜け出せないのに、「抜け出しなさい」と命じているのですから、たとえばそれは、「悪い習慣から抜け出せないでいる」と考えることができます。

すぐに思いつくのは「依存症」と呼ばれる状態です。アルコール依存症、ニコチン依存症、ギャンブル依存症、最近ではインターネット依存症など、いろんな依存症がありますが、こうした症状にある人は、意志の力では抜け出せません。また、周りの人の理解も十分でないことがあります。努力や、気合で治せるとか、抜け出せると思っているのですが、決してそうではないのです。

もし、こうした「依存症」が思い当たる人は、今日の福音のたとえを自分のこととして受け止めましょう。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」これは、信仰すれば病気が治るという意味ではなく、「わたしは、適切な治療を受ければ、必ず治る。立ち直ることができる」と信じることです。

たとえその信仰が、からし種一粒ほどの信仰であってもかまいません。「こんな治療で、本当に治るのだろうか」「こんなことを続けていて、大丈夫なのだろうか。」不安に負けそうになる自分を、からし種一粒ほどの信仰が支えてくれるのです。「大丈夫。わたしはきっと、この治療で治すことができる。この努力を続けて、立ち直ることができる。」

こうして、適切な治療を重ね、依存症を克服したなら、それは、「抜け出して海に根を下ろせ」という命令が実現するのと変わらないくらいの出来事ではないでしょうか。「それはどうかなぁ」と、誰もが思うようなことも、からし種一粒ほどの信仰があれば、神を固く信じる信仰がわずかでもあれば、努力は実を結び、大きな結果を生み出すのです。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」わたしは、このイエスの言葉を考えるもう1つの例として、司教さまになっていく人のことを考えました。

今、福岡教区の司教さまは宮原司教さまです。この司教さまは、初めは長崎教区の司祭でした。それが、大分教区の司教さまにまず選ばれて大分教区に籍を移しました。皆さんも自分に当てはめて考えてほしいのですが、これから引っ越して、宮崎か大分に住むことになったら、はいわかりましたと簡単に受け入れることができるでしょうか?ずっと五島に暮らしていた人が、まったく違う環境に住み始めることを考えたら、簡単には決心できないと思います。

ところが、宮原司教さまは、まず大分の司教さまとして籍を移し、またあとでは、福岡の司教さまとして転籍し、自分に与えられた務めを引き受けたのです。長崎でしっかり根を下ろしていたのを、大分に移り、さらに福岡に移動してそこで根を下ろしました。

本当にできるか、心配はあったでしょう。けれども、信仰が、不可能を可能にしたのです。頭で考えると、難しい要求ですが、からし種一粒ほどの信仰さえあれば、神の恵みがそこに働いて、不可能を可能にしてくれるのです。

司教さまほどではありませんが、司祭も修道者も、難しい要求に戸惑いながらも違う場所に根を下ろして生きることの繰り返しです。わたしは浦上教会から始まって、滑石教会、太田尾教会、馬込教会、そして今の浜串教会と根を下ろしてきました。

長い場所では6年居ましたので、抜け出すのは難しいと感じることもありました。新しい場所で根を下ろせるだろうか?それでも、からし種一粒ほどの信仰が、大いに役に立ったのです。

皆さんの中にも、何かのきっかけを与えられて、まったく違う場所で根を下ろすように要求されていると感じることがあるかもしれません。「そんなの無理」と決めつけないで、信仰が支えになってくれれば、できるかもしれない。こうした信頼の心を、呼び起こしてみたらと思います。

あなたが信頼しようとしている信仰心は、からし種一粒ほどかもしれません。たとえそうであっても、イエスはその小さな信仰に、くみ尽くせないほどの恵みをそそいで、不可能を可能にしてくださいます。
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