主日の福音10/09/26
年間第26主日(ルカ16:19-31)
神の国のルールに沿って生きる

いよいよ来週ミニバレーの日がやってきます。9月に入ってからはよく練習をやりました。日曜日、福見と高井旅のチームの練習、火曜日と金曜日は浜串チームの練習で、時々サボってはいましたが、いけるときはちゃんと参加して、おかげで体もずいぶん絞れて軽くなりました。

それ以前にも、転勤してからすぐに、ミニバレーの練習には参加していたのですが、今回のカトリック婦人会のミニバレーでは、普通のバレーの試合のルールとは違ったルールが用いられていて、最初ずいぶん戸惑いました。まず、味方同士で3回ボールを回すこと。これがなかなか身につかずに苦労しました。ほかにも、アタックは飛んではいけないし、サーブも必ずアンダーサーブを入れなければなりません。

面倒だなぁと思いますが、ルールがある以上、ルールを守らなければ試合を進めることはできませんし、ルールを守らないのであれば勝ち残ることはできません。これは当然のことです。ルールは初めから示されているのですから、「わたしたちは独自のルールで試合をします」と言っても通用しないわけです。

どんなことにも、ルールがあると言ってよいでしょう。そのルールが納得できるかどうかは別ですが、ルールを受け入れられなければ、その中に入れない、とどまっていることができません。実は、今週の福音朗読は、この「ルール」について考えると、学びが得られるのではないかと思っています。もっと言うと、「神の国のルール」についてです。

金持ちと、ラザロの物語。この物語についてはかなりの人たちが、話の内容を知っているだろうと思います。ラザロは死んで、神の国の宴席に招き入れられますが、金持ちは陰府でさいなまれながら苦しんでいます。先ほどの「ルール」ということを当てはめると、金持ちは神の国のルールに当てはまる生活をしなかったので、宴席に入ることができませんでしたが、できものだらけの貧しい人ラザロは、神の目から見て、神の国のルールに当てはまる人でした。

まず、ラザロが神の国のルールに当てはまっていたこと。この点から確認してみましょう。ラザロが、何かふさわしい善行をしていたから神の国のルールに当てはまったのではありません。彼は貧しい人で、誰からも報いを得ることなく地上で生きていたのです。

ただし、神の国には次のようなルールがあります。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(6・20)ラザロのように誰にも報いを得ることのできなかった人たちは、神が報いを与えるために神の国の宴席に招いてくださいます。神がそのようなお方だからです。神が探し求める人々の中に、ラザロは生きていたと言えるでしょう。

ところで、金持ちは神の国のルールに著しく外れていたのでしょうか。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。」(6・24)やはり、神の国のルールに外れていたのでしょう。富そのものは不幸でも不正でもありませんが、金持ちが神の国のルールに当てはまる人になるためには、富とまったく縁のない人、たとえば今日のラザロのような人とその富を使って友達になる必要があったのです。次のように書かれています。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(16・9)

今週の福音朗読では、ラザロは金持ちの門前に横たわっていたとあります。ここで言う「門」は、外の世界と自分たちの世界を出入りする場所のはずでした。門を出入りして、神の国のルールに当てはまる人になるために、積極的に与えられた富を外の人々に対して使う必要があったのです。

説教の初めにも言いましたように、ルールがあるからにはルールにのっとって行動する必要があります。神の国にもルールがあります。神は、弱い立場の人、しいたげられている人、圧迫されている人に手を差し伸べるお方です。神が助けなければいけない人と、神の考えに賛成できる人は、神の国の宴席に招かれます。反対に、神の考えに納得できない人は、神の国のルールを受け入れられないのですから、退場させられても仕方がありません。

ではわたしたちは、神の国のルールに当てはまる生活を心がけているでしょうか。「生きている間に悪いものをもらっている人々」を見て、手を差し伸べているでしょうか。門を行き来して、わたしの協力を必要としている人に近寄っているでしょうか。

もしかしたら、わたしの生活の中に厳重な門があって、わたしの手を必要としている人を締め出し、決して外にも出て行かないというような態度を、門を理由にとり続けてはいないでしょうか。もしそうだとしたら、神の国のルールを受け入れられないのですから、神の国の宴席に連なることはできなくなります。わたしたちは、そのような最悪の結果だけは避けなければなりません。

「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」(16・19)「いつも」、そして「毎日」取るべき態度は別にあります。「いつも」門を出入りして外の様子に気を配ることがはるかに大切です。「毎日」わたしの協力を必要としている人は誰だろうかと考えることがはるかに大事です。

たとえば、「貧しい人々は、幸いである」「今飢えている人々は、幸いである」「今泣いている人々は、さいわいである」などのイエスの言葉から、神の国のルールを学びましょう。ルールがあれば、そのルールから外れた行動は認められません。また、ルールから外れている人々がいれば、「神の国のルールはこうではないでしょうか」とうながして、神の国のルールに従った生活を皆が意識するように働きかけましょう。

ルールに従って行動するとき、わたしたちは喜び、笑い、楽しむことができるというものです。
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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(ルカ17:5-10)
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