主日の福音10/09/19
年間第25主日(ルカ16:1-13)
敬老者は、神のぶどう園で現役です

今日は、敬老者のためにお話をさせていただきます。この浜串小教区で敬老者とは、75歳以上の方々です。他の人のことじゃありませんよ。皆さんの話です。そして中田神父は、敬老者の方に教会でゆっくりしてくださいとは言いません。教会は敬老者の方にとって社会よりももっと活躍できる場所です。今日の話をよく聞いて、できることを教会家族のために取り入れて生きていってください。

今日の福音朗読は、管理人をやめさせられた人が、賢い振る舞いで運命を切り開いていくたとえ話が紹介されています。イエスはこのたとえを通して、その人その人の知恵を発揮して、自分の居場所を確保するように促しています。

主人に雇われていた管理人は、だれかの告げ口があったために、管理人の仕事を取り上げられてしまいました。今日、敬老の日の呼びかけにこたえて、ミサにあずかっておられる皆さん、他人事と思わずにしっかり話を聞いてください。たとえ話の人は、仕事を取り上げられてしまいました。

また、この仕事を取り上げられそうになっている管理人は、こう話しています。「土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。」(16・3)あらためて仕事を探すのも難しいし、なりふり構わない生活もできない立場になっているのです。敬老者の皆さんにとっては、他人事とは思えないのではないでしょうか。

そこでたとえ話の管理人は、一つのことを思いつきます。管理の仕事をやめさせられても、周りの人々に迎え入れられるように準備をしたのです。それは、「わたしの主人にいくら借りがあるのか」と尋ねて回ることでした。「あなたは、いくら借りがあるのか。」そうして主人に仮のある人に恩を売って、主人にも収穫が入るように計らったのでした。

わたしは、ここに敬老者の皆さんが心がけてほしい姿があると思っています。たとえ話の管理人は、管理人の仕事を取り上げられそうになっています。普通であれば、仕事を取り上げようとしている自分の主人に、最後のご奉公をする理由はないかもしれません。

けれどもこの管理人は、「あなたは、主人にいくら借りがあるのか」と尋ねて回ったのです。わたしは、この姿には、神さまのために最後のご奉公をする素晴らしいお手本が示されていると思うのです。敬老者の皆さんが最後のご奉公として期待されているのは、「あなたは、神さまにいくら借りがあるのか」と、尋ねて回ることだと思います。

わたしは、教会の中では、すべての人が神さまに呼ばれた働き人だと思っています。教会というぶどう園の中で、どんなにわずかな働きであっても、神さまが報いを用意しておられる働き人だと思うのです。それは、今日お祝いを受ける敬老者もです。

もちろん、敬老者の皆さんは、高い所に登ったり、重たい物を持ち上げたり、夜遅くなるまでの仕事はできないかもしれません。けれども、教会家族の中にだれか神さまに対して貸し借りのある人があって、「あなたは、神さまにいくら借りがあるのか」と尋ねて回ることは、できると思うのです。

中には、たとえ話に出てくるような、大きな借りが神さまに対してある人もいるかもしれません。その時こそ、敬老者の皆さんの出番です。百の借りがある人を五十と書き直させて、主任司祭のもとに行かせるのです。できれば、敬老者の方が付き添いできてくださるのが一番効果的です。

そうすると、主任司祭はまだ小教区の事情を知りませんから、敬老者の皆さんがこの人の神さまに対する借りは百じゃなくて五十ですと言えば、間違いなく信じます。主任司祭は子供と敬老者のお願いには弱いんですよ。

そうして、神さまに百の借りのある人を五十と書き直しさせて連れて来れば、敬老者の皆さんは連れて来た人にも、神さまに対しても、相当恩を売ることになります。土を掘る力がなくても、なりふり構わず物乞いをしなくても、大きな働きを神さまのために果たして、神さまの前での居場所を確実にすることができます。

遠慮は何もいりません。「あなたは、神さまにいくら借りがあるのか。」気になる人を思い出したら、そう尋ねてください。そして、連れて来てください。百の借りがあっても、敬老者の皆さんが「この人の神さまに対する借りは五十です。」と言ってくだされば、わたしはそれを真に受けます。

どうぞ、神さまに、「あなたは賢い働き方をするね」とほめてもらえる敬老者であってください。これからも、そして命のある限り、神さまと若い人々をつなぐ管理人の働きをしてください。「あなたは、神さまにいくら借りがあるのか。」なかなか、若者には言えないこの言葉を活かして、神さまにほめられる人生をまっとうしていただきたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(ルカ16:19-31)
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