主日の福音10/09/12
年間第24主日(ルカ15:1-10)
一緒に喜ぶことを学ぶ

今週は、有名な「放蕩息子のたとえ」を含む3つの「あわれみのたとえ」が福音朗読に選ばれています。その中で今年の説教の材料として、「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」を取り上げてみたいと思います。

本日、浜串教会では永久礼拝の当番となっています。信徒の皆さんは永久礼拝まであって大変だなぁと思っていることでしょう。けれどもわたしは、午前中永久礼拝を済ませて、昼からは上五島地区のシスターたち全員を対象にしたミニ黙想会を指導することになっています。

そうなると、今話しているこの説教と、永久礼拝での短い話と、シスターたちへの45分の講話と、3つをこなさなければなりません。そのことを考えれば、皆さんはまだ、永久礼拝で終わりなのですから、ましなほうだと思ってください。もしかしたらシスターたちが、1日に3回もわたしの話を聞かされて、いちばんの犠牲者かもしれません。

今年取り上げようと考えた2つのたとえの中で、特に目立っている言葉は、「一緒に」という言葉です。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(15・2)とイエスに不平を言う場面、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」(15・6)と言っている場面、「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」(15・9)と言っている場面です。

どの場面も、喜びを分け合う場面です。イエスは、徴税人や罪人と神の国について語り合い、喜びを分け合います。いなくなった羊を見つけた人も、大きな喜びを友達や近所の人々と分け合います。銀貨を見つけ出した女性も、友達や近所の女性を呼び集めて喜び合うのです。

大事なのは、一緒に喜び合うことです。もしわたしが、「喜んでください」と言っている人の気持ちを喜べないなら、大きな喜びに加わることができません。神の国の喜びを知るためには、どうしても、「悔い改める一人の罪人を喜ぶ気持ち」が必要となるのです。

ところで、たとえにされている話を思い出すと、そんなに大げさに喜ぶことだろうかと疑問を感じる人もいるでしょう。百匹の中の一匹ですから。あるいは、家の中で銀貨が一枚行方不明になったに過ぎないのですから。そんなに驚くことだろうかと思うのも無理はありません。

けれども、1人の人の回心や、神の家族に加わる出来事などは、たった1人でもかけがえのない1人なのではないでしょうか。たとえば、わたしたちの教会で大人の洗礼が1人与えられたとしましょう。それは、50分の1の出来事かもしれないし、100分の1の出来事かもしれません。

それでも、わたしたちの教会を喜びで満たすのには十分な出来事ではないでしょうか。その1人の人が教会家族に加えられることは、すでに教会家族である50人100人に十分刺激となる出来事のはずです。「誰それが、洗礼を受けたからって、それがどうしたの」こんな受け止め方をする人はまずいないと思いますが、もしいるとしたら、一緒に喜ぶことを学ぶ必要があると思います。

そこで、わたしたちもイエスのたとえ話をもっと身近に感じる努力をしてみましょう。わたしたちはほとんどがカトリック信者という集落の中に生きていますが、それでも、1人の人が教会家族に加わるとか、1組のカップルが結婚するという場面は残されているはずです。そこでまず思い浮かぶのは、「あー、あの人は事情があるから、教会に近づくことはまずない」こんなことかもしれません。

けれども、その1人を「無理」と決めてしまうのではなく、大きな喜びを一緒に分け合う1人と考えるなら、努力のし甲斐があるのではないでしょうか。たとえ話では、羊も、無くした銀貨も、自分からはこちらにやって来ることはありません。探しに行って、見つかるまで探さないと、喜びの輪に加わることはできないのです。

一緒に喜ぶために、その1人のために、どれだけ苦労しなければならないことでしょう。けれども、イエスはその苦労を厭わないようにと促しているのです。一緒に喜びを分け合うため、大きな喜びを味わうためにです。

「今集まっている人だけで続けていけばよいではないか。」そう考える人もいるかもしれません。けれども、もっと大きな喜びを分け合うためには、あと1人に、声をかけ、促す必要があると思います。今のままでも結構ですが、イエスがあと1人、あと1人と一緒に喜び合う人を探して行ったのですから、わたしたちも目をそむけてはいけないと思います。

ファリサイ派の人々や律法学者たちは、一緒に喜ぶことを学びませんでした。イエスが示す「大きな喜び」の中に入ることができなかったのです。「あんな人と歩調を合わせたくない。」自分よりも低く思っている人々の中にイエスは入って行き、喜びを分け合います。

あとはわたしたちが、イエスのなさりかたに賛成して、「喜んでください」と言っておられるイエスと共に喜ぶことができるかどうかです。わたしたちはファリサイ派の人々や律法学者たちの過ちを繰り返さず、イエスの中に行動の基本を見続けるようにしましょう。イエスについていけなくなった時、わたしたちは一緒に喜び合う輪から、外れてしまうのですから。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(ルカ16:1-13)
‥‥‥†‥‥‥‥