主日の福音10/09/05
年間第23主日(ルカ14:25-33)
神のために放棄し、与え返してもらう
ついこの前、スチールの本棚を大量に買い込みまして、あるだけの本を広げてみました。4月にこちらに来てから9月まで、まったくと言っていいほど本を開けずに過ごしていたのですが、ようやく開いてみる気になったわけです。ざっと1週間ほどで開いてしまいましたので、早くに取り掛かればこんなことにはならなかったのにと思っております。
本を開いてみると、いくつかのことが見えてきました。まず、使いもしない本がずいぶん含まれていて、これについては処分しようと心に決めました。次に、開いただけでは本の山の中で迷子になってしまいますから、関連する本は近くに並べて、使える本棚にしなければならないということです。
そして最後に、「この本を、よく取っておいたなぁ」という種類のものが出てきたのです。本に限らず、資料とか、メモとか、そのたぐいのものです。そしてその中に、なぜか知りませんが、鯛ノ浦教会での地区集会に参加して熱心にメモをとったと思われる、父親の手書きのノートが見つかりました。
父親はわりと几帳面な人だったようで、地区集会の中で当時の主任神父さまが熱心に聖書の解説をしているのを、真剣にメモを取っている様子がうかがえました。考えすぎかもしれませんが、いつかは、わたしが地区集会で聖書の話をして、それを熱心に聞いてメモを取るというようなことを夢見ていたのかなぁと、貴重な手書きのメモを読みながら思いました。
今週、福音朗読は弟子の条件についてイエスが話しておられる部分です。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(14・26-27)
非常に厳しい要求ですが、イエスはこの要求を引き下げるつもりはないようです。わたしも、イエスの要求は非常に厳しいと感じますが、考えようによっては、これくらいの要求があっても不思議ではないと言えます。
おそらく、皆さんがいちばん引っかかっているのは、次の部分でしょう。「〜であろうとも、これを憎まないならば、わたしの弟子ではありえない。」「憎む」という部分は、相当引っかかるだろうと思います。この部分をどう理解するかが、今週の福音朗読を理解する鍵でしょう。
わたしはこの「憎む」という態度を、「淡い期待を一切放棄する」というふうに考えてみました。だれかがイエスについて行くと決めた時、イエスに期待することとあわせて、家族にもいろんな期待をすることが考えられます。家族だから支えてくれるだろうとか、家族には甘えながらイエスについて行きたいとかです。
けれども、家族につい期待してしまいそうな部分を、「一切放棄する」これが、イエスの求める「憎む」ということかなぁと思いました。本来であれば、家族はどんなときにも味方になってくれる存在ですが、味方になってくれることを期待しながら、イエスについて行くのではどこまでも付いていくことはできないのです。イエスに最後までついていくためには、イエスのほかにだれも味方になってくれない。だから必死にイエスについて行く。その覚悟が必要なのです。
一方で、家族もイエスの弟子になろうとする者をおささげしなければなりません。家族としてとどまっていれば、大変心強い存在だったはずです。その頼もしい存在を、イエスのために手放します。イエスにささげてしまえば、それは自分たち家族のものではなくなるのです。
わたしも、ひょっこり出てきた父親の地区集会でのメモを通して、父親がわたしを神さまにささげて手放したのだということをしみじみ感じました。ただ、ささげて手放しましたが、神のために手放したものは、神によって返してもらうのではないかとも思います。
旧約聖書の中では、アブラハムが一人息子イサクを神さまの命令に従って手放しましたが、手放したことで神からイサクを返していただきました。わたしたちの中では、何よりもまず司祭・修道者になるために子供たちを手放すことが、この福音の勧めを考える近道だと思います。
一人息子とか、一人娘とか、いろんな形があるでしょうが、神さまのために手放す人は、神さまからその子を与え返してもらうのだと思います。手放したのですから、両親の思い通りにはいかないと思いますが、神の望む姿に造りかえられてもう一度取り戻すわけです。神さまにおささげして手放したものは、決して失うことがありません。
また、家族が神さまにささげて手放したその子供は、いつかイエスにまっすぐに従うために家族からの期待を一切放棄することになります。お母さんにかわいがってもらったことも、お父さんに大切にしてもらったことも、イエスにすべてを期待する生き方に切り替わる時が来ます。
けれども、家族からの淡い期待を一切放棄したその子は、イエスにまっすぐに従う中で、家族をイエスから与え返してもらうのではないでしょうか。わたしのほんの少しの体験ですが、父親がいよいよ最期を迎えようとしていた時、週に一度見舞いに行って、病室でミサをささげることができました。
年に一度か二度、家に帰ればよい方だったわたしが、父親との時間を頻繁に与えてもらうことができたのは、先に家族からの淡い期待を一切放棄した結果だったと思うのです。もしわたしにも家族があって、家族と家族付き合いしていたなら、むしろ父親との大切な時間は、与えてもらえなかったかもしれません。
弟子の条件として、司祭や修道者に少し焦点を当てて考えてみました。弟子になるために、家族から期待できることすべてを放棄します。それも、小学6年生とか、中学3年生で、おぼろげながらその覚悟を持つことになります。長い長い時間、イエスにまっすぐに従って家族をおささげしますが、弟子になれば、今度はイエスによって家族を与え返してもらうことになります。
家族も、イエスにまっすぐに従う子供を、寛大に神さまにおささげします。子供を手放しますが、神さまにささげた子供は、神さまに与え返してもらうのです。きっと、イエスのために他のすべての期待を放棄する人は、どのような形でイエスの弟子になるにせよ、いつかイエスを通して放棄したものを与え返してもらうのです。
この世の淡い期待を憎みつつ、イエスにまっすぐに従おうと自分の十字架を背負う人は、失うことを恐れません。イエスが与え返してくださるからです。
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‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(ルカ15:1-32)
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