主日の福音10/08/29
年間第22主日(ルカ14:1,7-14)
空の手で、報いを求めない

今日の福音では、「へりくだる者は高められる」というのがポイントだと思います。まず身近なところで、「へりくだる」というのがうまくいった例と、失敗した例を挙げてみたいと思います。

まずは、「へりくだる」の成功例です。この夏の高校野球特別なドラマが待っていました。沖縄県代表の興南高校が、春夏連覇を果たしました。NHKの夜9時のニュースで、キャスターが我喜屋優監督にインタビューしたときの様子が流れていましたが、春に優勝した生徒たちをもう一度リセットして出発することがとても大変だったと語っていました。

そうだろうなぁと思います。春に優勝したチームに、初心に立ち返って練習しようと呼びかけても、「自分たちは春に優勝したんだ」という驕りとか心の油断とかがどうしても頭をもたげてくると思うのです。全部取り払ってやりなおそうとしたって、それは簡単ではないと思います。

「春は春だから」と頭では思っていても、「優勝したことがあるんだぞぉ」という気持ちを決して出さないというのは並大抵のことではなかったはずです。その点を監督の指導でうまく乗り越えて、春の優勝チームなのに、まったくの振り出しに戻って選手を鍛え上げることができた。その結果が、今回の優勝に結びついたのだと思いました。

次に、「へりくだる」の失敗例です。わたしは、前の前に赴任していた教会で恥ずかしい思いをしたことがあります。この教会は、わたしが初めて主任司祭となって赴任した教会でした。それから新しい辞令をもらい、前任地に転勤していったのですが、転勤して間もなく、前の前の教会の御婦人が亡くなって葬式のミサに出席することになりました。

その方は、長崎教区の神父さまのお母さんでもありました。ですから、葬儀ミサにはたくさんの神父さまが出席していて、わたしもその中の1人としてミサをささげていたのです。

亡くなった方や、司式をしておられた息子さんの神父さまには失礼な話ですが、「あー、ついこの前までここにいたんだなぁ。お、あの人も来てるなぁ。」そんなことを思ってずいぶん気を散らしながら、同席の神父さまと一緒にいたわけです。

ミサの途中、ちょっとした問題が発生しました。典礼の係の人に指示を出せば、すぐに対処できることでしたが、いっこうにその問題に対処する様子が見えませんでした。わたしは思わず、典礼係の人の名前を呼んだのです。「○○さん。ちょっと、対処してあげてよ。」

つい、声を出して言ってしまったのですが、言ってから気付きました。「あっ、わたしは数カ月前に、もうここの主任神父ではなくなっていたんだ。わたしが口を挟んではいけない。」けれども、もう後の祭りで、静まり返った聖堂に、前任者に過ぎないわたしの声が響いてしまったのでした。

とっさのことでしたが、今でもその時のことは思い出すと申し訳ないなぁと思います。わたしの後任でやって来た神父さまも、その教会で初めて主任司祭になったのでした。その神父さまを差し置いて、係りの人に指図したのですから、後任の神父さまに面目が立ちません。本当に恥ずかしいことをしたなぁと思います。

今週の福音朗読で、イエスは神の前にへりくだることの大切さを教えます。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(14・11)たとえ話の中では、婚宴に招待された時、末席に座れば、人々の前で面目を施すことになるではないか。だから、神の前にへりくだることは、神に高めてもらう何よりもよい方法だと促します。

しかも、見逃してはいけない小さな付け加えがあります。「だれでも」です。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のです。わたしは、前の前の教会の主任司祭でした。確かに数カ月前までは、そうでした。それでも、「ほら典礼係、何ばしよっとや」というような態度をとってはいけないのです。

きっと、数カ月前まで主任司祭だったのですから、わたしが指示を飛ばしたほうがすぐに解決するでしょう。けれどもそれは、踏み越えてはいけない部分だと思うのです。「だれでも」へりくだる必要があるのです。あの場面、どうしても典礼係に指示を出そうと思うなら、今の主任司祭にそっと伝えて、それから典礼係に動いてもらうべきだったと思います。

「へりくだる」ことの大切さがわかると、イエスのもう1つのたとえ、「お返しのできない人を、招待してあげなさい」も理解できるようになります。お返しをしていただくことは、報われるということです。報いを手に受けた人は、それ以上、報いを手にすることはできません。すでに、報いを手にしているからです。

いっぽうで、お返しのできない人を招いたとき、わたしたちの手は報いを受けないのですから、いつまでも手は空っぽのままです。それでいいと、イエスさまはおっしゃいます。その空の手に、イエスさまが最後の報いを用意してくださるからです。手が空いてる、空の手だからこそ、わたしたちは報いを手にできるのです。

こんな聖歌を思い出しました。「空の手で、はだしのままで、ついて行きたいキリストに。ついて行きたいキリストに。」わたしたちは、手に報いを得ることばかりを目的にして奉仕すべきではありません。手に報いが得られない働きこそ、あなたにとって願ってもないチャンスです。誰も報いてくれないその働きに、イエスが報いを用意してくださいます。
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(福音書)
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