主日の福音10/08/08
年間第19主日(ルカ12:32-48)
目を覚ましている僕であり続ける

説教もずっと作り続けていますが、いつ準備しても何かしら新しい発見があります。新しい発見があるのか、わたしの勉強不足でまだ知らないことがあるのか分かりませんが、今週の福音朗読箇所について、今年は新しい発見がありました。

与えられた朗読箇所ルカ12章の、35節から40節の部分に、「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」という言い方が2回繰り返されています。2か所とも引用しておきましょう。

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」(12・37)

「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」(12・38)

わたしはこの個所を読むといつも、「主人に使ってもらっている僕なのだから、目を覚ましていることに不平不満はないけれども、いったいいつ眠りにつけばよいのかなぁ」という疑問を持っていました。「主人が帰って来たとき」目を覚ましている。「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、」目を覚ましている。これはなかなか大変だなぁと思っていたわけです。

ここで取り上げている「目を覚ましている」という姿は、キリスト者にとって大切だと考えられていた姿勢でした。教会の始まりのころをよく伝えてくれる聖パウロも、テサロニケの信徒への手紙の中で、「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(一テサ5・5-6)と述べています。

さて、わたしたちが一般的に目を覚ましているのは、一日のどの時間でしょうか。ふつうに考えると、わたしたちが目を覚ましているのは「日中」です。日中とは、どんな状態の時間でしょうか。それは、太陽に照らされた、昼の時間のことです。

ここまで話せば、賢い方々はお気づきでしょう。わたしたちキリスト者が目を覚ましている「日中」は、キリストに照らされて過ごす時間のことです。キリストが太陽として、わたしたちの心を照らしておられる。その時間が、照らされて目を覚ましている時間なのです。

さらに考えてみましょう。目を覚ましている「日中」という時間帯は、何時から何時までと、決まっているのでしょうか。時計で刻む時間であれば、何時から何時までと時間を区切ることができるでしょうが、ここまで考えてきたように、キリストに照らされている時間が「日中」なのであれば、何時から何時までと時間を区切ることなく、あらゆる時間が、キリストに照らされて「日中」となりうるのではないでしょうか。

体験談を一つ紹介します。ある夫婦の話です。この夫婦は、結婚するとき、奥さんがカトリック信者で、ご主人がカトリックでない方でした。男性は、女性側の親族から洗礼を受けて結婚するようにそうとう強く言われたそうですが、実現しませんでした。当時は、カトリック信者同士でなければ結婚は難しい時代でしたので、この夫婦は教会での結婚式を挙げずに結婚生活に入りました。

長い長い結婚生活も晩年を迎えた時、奥さんに異変が生じました。この夫婦は自営業を営んでいましたが、異変を感じた奥さんが健康診断を受けたところ、病はすでに手の施しようのない状態になっていました。ご主人はそのことを奥さんには知らせず、知り合いの教会信徒に連れられてまずわたしのところにやって来たのです。

ご主人はこう言いました。「神父さん。わたしは縁があってカトリック信者の妻と結婚しましたが、洗礼を受けることにどうしても抵抗があって、そのため教会での結婚式もしないままここまで来てしまいました。

ところが、妻に異変が生じ、診断の結果は余命いくばくもないというものだったのです。わたしは妻に何不自由ない生活をさせてきたつもりですが、カトリック信者の妻に対しては、たくさんの迷惑をかけてきたと思うのです。

そこで、今さらのようですが、お勉強させてもらって洗礼を受け、結婚式をさせてもらえないでしょうか?妻が、教会での結婚式をしないまま旅立ってしまうなら、わたしは死んでも死にきれません。」ご主人はわたしの前で、男泣きに泣いたのでした。

すぐに勉強が始まりました。わたしの提案で、洗礼名は「聖ヨアキム」としました。奥さんの洗礼名が「聖アンナ」だったからです。みなさんよくご存じと思いますが、ヨアキムとアンナは、聖マリアの両親の名前です。

無事、ご主人は洗礼を受けました。そしていよいよ、教会での結婚式を挙げる日がやって来ました。誰も、この日を予想できませんでした。奥さんでさえも、この日が来るとは思っていなかったでしょう。けれども神さまは、これらのすばらしい日々を、このご夫婦のために用意してくださっていたのです。

奥さんがまだ歩くことのできるうちに、夢が叶い、ご主人は最後の日々、けんめいに奥さんを介護してくれました。その後奥さんは寝たきりになり、お腹に水がたまり、最後のその日を迎えて旅立ちました。

わたしは、イエスの言葉を重ね合わせて考えるのです。「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」夜昼寝起きして、いつ結婚したご主人が洗礼を受けてくれても、喜んで迎えることができるように、奥さんは目を覚まして用意していたのではないでしょうか。

一睡もしないという意味ではありません。実際には何十年もあとにやってきたご主人の喜びの日を、今日やって来ても、何十年後にやって来てもよいように夜昼寝起きしながら待ってくれていた。こういう姿を、イエスはわたしたちに期待しているのではないでしょうか。

目を覚まして用意している人への報いを、イエスはこう述べています。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」(12・37)お話しした奥さんのご主人は、最後の最後の日まで帯を締めて、奥さんのためにすべての給仕をしてくれました。

神も、わたしたちが目を覚まして用意する僕のように人生を全うした暁に、わたしたちのために神の国の宴会に招いてくださり、わたしたちを食事の席に着かせ、そばに来てあらゆる給仕をしてくれることでしょう。

どこを切り取っても、主であるイエスに信頼を置いて生きること。それが、イエスの言う「目を覚ましている僕」の姿だと思いました。起きているときも眠っているときも、神への信頼が土台になっているだろうか。今一度、生活を振り返ることにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
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