主日の福音10/08/01
年間第18主日(ルカ12:13-21)
現代も、神の前に豊かな生活は必要

8月になりました。暑い盛りに、今日の福音朗読はよく選び抜かれているなぁと思います。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(12・21)こんなに暑いと仕事にならない。じゃあエアコンをつけよう、こんなに不便では仕事にならない。ではあれを買い直そうこれを買い足そう。わたしもこちらに来てからちょこちょこ物を買い直したり買い足したりしました。

けれども、これらは、自分のために富を積んでいるだけの話です。これではいっこうにイエスの説く「豊かさ」には近づかないわけです。「神の前に豊かになる」このことが必要ですが、皆さんお一人お一人、「神の前に豊かになる」お手本のような人はいらっしゃるでしょうか。

わたしにとっては、母方の祖母が、「神の前に豊かな人」のお手本でした。わたしは土曜日になると山をひとつ越えて母方の祖母の家に泊まりに行かされていました。感覚としては、浜串から福見に泊まりに行かされているような感覚です。

祖母の家には白黒テレビが1台ありましたが、それはプロレスを見るためだけのテレビだったらしく、他にはテレビがついていたのを見たことがありませんでした。冷蔵庫もなく、炊飯器もなかったように記憶しています。そんな祖母の家に泊まって、孫のわたしに楽しむものがあるはずがありません。

ところが、わたしは祖母の家に泊まりに行くのを嫌がる様子もなく、よく言いつけを守っていたようです。祖母の家で待っているのは、決まって長い長い祈りと、信仰にまつわる様々な話でした。元気を出して歩くために、一歩踏み出すたびに「天に、まします、我らの、父よ、願わくは、御名の、尊まれん、ことを」と唱えながら歩いていました。

ある意味、がばいばあちゃんのようなばあちゃんでした。何にも持っていませんでしたが、信仰の話、祈る量についてはとてつもなく豊かでした。昔の小学校上がりで、カタカナしか読めない祖母でしたが、祈りは何でもすらすら唱えていました。わたしにとって、「神の前に豊かな人」のお手本は、まずは母方の祖母なのです。この祖母が、わたしの信仰を鍛え上げてくれたのだと思っています。

ついこの前、中学生と小学生の黙想会が終わりました。中学生は黙想の学びを、インターネットブログに掲載するところまでを取り組んでみました。玄関口の掲示板に、「浜串小教区中学生ブログ」のURLを掲示していますので、よかったら自宅に戻って覗いてみてください。小学生は、「ペトロはこたえます」という聖歌を材料に、学びを得ました。教会入口に黙想で得た学びを絵で表現していますので、ごらんください。

わたしは、この子供たちが、これから先どうやって、「神の前に豊かになる」という経験を積んでいくのかなぁと思うことがあります。今、目の前にいる子供たちの祖父母の方々は、まだ、何かしらの仕事をして、忙しく活躍しているのではないでしょうか。とても、祈りに明け暮れる日々というような生活ではないと思います。

ではご両親に期待をかけられるかというと、わたしが幼いころでも食べるために両親が精一杯働いていた時代でしたから、今はなおさら、夜遅くまで仕事をしているに違いありません。そうなると、いったいどこで、「神の前に豊かになる」経験を積むのでしょうか。

やはりそれは、教会が主催している行事や、集いなどではないでしょうか。5月と10月、ロザリオを唱えることが大いに進められていますが、今は教会でのロザリオの信心に参加しなければ、家庭でロザリオを唱えることはないかもしれません。

もしかしたら、朝の祈り、晩の祈りを決して欠かさずに唱えている家庭ももう見つからないのかもしれません。祈りの中には、「聖マリアの連祷」など、かつてはどこの家でも唱えていた祈りもありましたが、今ではこの連祷を唱えることも、教会でしか行わないかもしれません。

そうなると、今まで以上に教会での取り組みは大きなものになってきます。かつては、教会でしか味わえないものは、ミサとか、洗礼式結婚式、あるいは葬儀など、特に教会という場所がかかわって来る祭儀に限られていました。そのほかのほとんどのことは、家庭の中で経験できていたのですが、残念ながらそうはいかなくなりました。

それでも、みことばの重みは何ら変わりません。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」神の前に豊かになる経験が、どうしても家庭で不足してきたとすれば、神の前での豊かさを得るために、積極的に教会を利用すべきだと思います。こんなこと、あんなことを教会で体験させることができないか。主任司祭ももっと考える必要がありますし、信徒の皆さんも、積極的に申し出てほしいです。

ここまで触れてきませんでしたが、現代の忙しい中でも、神の前に豊かになるために、ぜひ考えてほしいことがあります。それは、「聖書に親しむ」ということです。祈りによる豊かさが、かつては大きな部分を占めていました。けれども現代は、聖書のみことばに親しんで、聖書を通して神の前に豊かになることが、もっと大切になってきていると思います。

長崎教区では、聖書マラソンという取り組みを熱心にしていますが、聖書マラソンも本当に読んでいる人のためになっているのかは疑問があります。義務的に、次の人に渡すために読んでいるというのでは神の前に豊かにはなれません。

わたしがお勧めしたいのは、新約聖書から読み始めるとして、食事の前に、1ページ読んでから食事を始める、そういう取り組みをしたらいいのではないかなぁと思っています。実はこの勧めは、前任地の教会から言い続けていることなのですが、だいたい新約聖書のページ数が500ページを切るくらいです。

1年が365日あるわけですから、朝食をいただく前に、1ページか、2ページ、区切りのいいところまで読むと、1年で確実に新約聖書を読みあげると思います。聖書は確かふりがなが振ってありますから、小学校の高学年から、確実に実行できる取り組みです。仮に5年生から始めたとして、小学校を卒業するまでに、2回は新約聖書を読み終えることになるでしょう。

これこそ、現代にあって幼い時から神の前に豊かになる方法ではないでしょうか。人にばかり言いっぱなしではいけませんので、さっそく、わたしも今日から食事の前に1ページ読んで、食事に入りたいと思います。朝食の時に、読むことにします。1年後、あるいはもっと早くに、読み終わったら皆さんに報告します。
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‥次の説教は‥‥
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(ルカ12:32-48)
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