主日の福音10/07/25
年間第17主日(福音書)
すべての方法で神に求め、神を探す

今週の福音朗読はいくつかの材料が組み合わされています。まずイエスの弟子たちが、イエスに祈りを教えてくださいと願う場面です。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(11・1)

次に、旅人をもてなすためのパンを、友人にしつように頼み、手に入れる場面が入っています。ここでの要点は、「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」(11・8)です。

最後に、祈り求めることの大切さを教える結びの言葉をイエスが添えています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(11・9)

これらは別々のものが組み合わされているようにも見えますが、わたしは、すべてが1つの箇所に結びついていくと考えています。それは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」です。

朗読を順にたどってみましょう。弟子の一人がイエスに、「わたしたちにも祈りを教えてください」と願いました。洗礼者ヨハネとその弟子たちは、独自の祈りを持っていたので、他の人々とは区別されて、注目を浴びていました。イエスの弟子も、もしかしたら自分たちが独自の祈りを持つことで、自分たちはみんなと違ってイエスの弟子だ。そういう優越感を感じようとしていたかもしれません。

イエスは、弟子たちの思惑には一切構わず、主の祈りを示しました。今日は、主の祈りの解説みたいなことは省きますが、祈りによって、「求め、探し、門をたたく」という道を示してくださいました。

次に、旅行者をもてなすパンがどうしても必要になった時、真夜中に友人を訪ねてパンを分けてもらう話です。友人だからお願いに行ったのでしょうが、お願いに行くにはかなり無理な時間に訪ねていきました。お願いする本人も、そのことは十分承知でしょう。

けれども、背に腹は代えられず、お願いに来たのでした。彼の唯一の交渉手段は、「しつように頼む」ということでした。イエスは、このたとえを通して、しつような行動によって「求め、探し、門をたたく」という道を示してくれました。

朗読の最後は、何かをすることで「求め、探し、門をたたく」というのではなく、全面的に信頼する、希望し続けるという道です。イエスはこうおっしゃいました。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(11・13)

これは、希望し続ける人には必ず答えが返ってくることを教えています。子供は、まだ祈りで「求め、探し、門をたたく」ことも、しつような行動によって「求め、探し、門をたたく」こともできない弱い存在です。けれども、どんなに弱く小さい存在でも、全面的に信頼すること、希望を持ち続けることは可能なのです。この方法によっても、人は神に「求め、探し、門をたたく」ことができると、イエスは教えてくださいました。

まとめると、わたしたちが神に対して「求め、探し、門をたたく」方法は3つ考えられるということです。それは祈りによって、しつような行動によって、全面的な信頼によってです。3つの方法が示されましたが、3つの方法はわたしたちにどのように関わってくるのでしょうか。

わたしは、誰にとっても、3つの方法すべてが、神に対して「求め、探し、門をたたく」方法として必要ではないかと思っています。まずは祈ることによってですが、祈りによって「求め、探し、門をたたく」ことは、何を神に求めるかを教えてくれる大切な方法だと思います。

つまり、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言っても、むやみに求めなさいと勧めているわけではないのです。ほしいものがあって、それを買ってくださいと求めることは、あまりふさわしいとは言えません。「主の祈り」を唱えて、祈りを通して求めるなら、本当に求めるべきは何だろうかと、よく考えることができるでしょう。

次に、しつような行動によって「求め、探し、門をたたく」ことについてですが、たとえの中ではパンを必要としていて、しつように頼み、分けてもらいました。わたしはこの話で大切なことは、「親切心」を友人から引き出した、この点が大事なのだと思います。

イエスさまの生活の場であったパレスチナ地方は、親切心はとても大切な価値観で、親切心を欠いた人と呼ばれるのは非常に恥ずかしいことでした。たとえの中でパンをお願いする人は、相手が親切心をきっと示してくれると信じて、しつような行動に出ました。とった行動は相手に迷惑だったかもしれませんが、親切心をくすぐるしつような行動を、無視することはできなかったのです。

同じくパンをお願いされた人も、断りたい事情が確かにありましたが、親切心を欠いた人と思われることは最大の恥でしたから、親切心を示したのです。ここから、「主の祈り」を通して神に何を求めるべきかが分かった人は、神の親切心を信じて、しつような行動に出るようになるのです。神が親切心を忘れることは決してない。これがわたしたちのしつような行動の力の源です。

そして最後に、自分が弱く小さな存在と感じるとき、全面的に信頼する、希望し続けることで「求め、探し、門をたたく」こともできます。わたしたちは誰もがしつように行動し続ける力や健康を与えられているわけではありません。祈りによって、何を求めるかがわかっていても、それを行動に移すことのできない弱いときもあります。そんなとき、この信頼の態度、希望する態度は、神に必要なことを求める賢い手段になります。

たとえばそれは、病気で床についている人、1日を終え、眠りに就く人などを考えることができます。行動の時ではありませんが、深い信頼によって、神のお世話に身を置くことができます。こうして、朗読に示された3つすべての姿が、わたしたちの「求め、探し、門をたたく」ための必要な道具になるはずです。

わたしたちに祈りを教えてくださった主は、祈り、行動し、深い信頼を寄せる、このすべてが「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(11・9)ということにつながると教えています。まずは祈ることから始めて、求めたことが与えられた、探したものが見つかった、門をたたいて開かれた、この体験を積むことにしましょう。わたしたちが積む経験は、信仰を深め、人に、証しを立てる力の源となっていきます。
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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(ルカ12:13-21)
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