主日の福音10/07/04
年間第14主日(ルカ10:1-12,17-20)
イエスは今も「漁をしなさい」と呼びかけます

人間は面白いもので、最初に習った人、その人から習ったことなどをとても大切にする傾向があります。わたしは初聖体の勉強を、自分が通っていたお告げのマリア経営の保育所の、園長先生から習いました。わたしの中では、この初聖体の準備をさせてくれたシスターが「シスターの鏡」であり、「マリアさまもきっとこういう人に違いない」と思っていたものです。

大人になり、司祭になって、初聖体の準備をさせてくれたシスターと再会しました。白髪交じりのおばちゃんになっていました。わたしはその時こう思ったのです。「初聖体の時に教えてくれたシスターは、マリアさまのようにステキだったのに。」記憶の中のシスターがずいぶん変わっていたのでびっくりしたのです。20年ぶりに再会したのですから、無理もありません。

話が面白いのはここからで、それでも、今でも、わたしにとってマリアさまはこんな人に違いないというのは、今はおばあちゃんになっているそのシスターなのです。永遠に、シスターの鏡はシスターの鏡で、変わらないのです。ここが不思議だなぁと思います。

30年以上経った今になって思うことは、わたしは幸いに初聖体のけいこを受けながら、シスターを見ていたのではなくて、シスターの中に何かを見ていたのだろうということです。だから、実際のシスターが年齢を重ねても、シスターの中に何かを見る態度が変わらないので、今でもステキなシスターであり続けるということです。

ただ、その人の中にも、何かがなければ、見ることができないのも確かです。わたしが、その人を見ているのではなくて、その人の中にある何かを見ると言っても、その「何ものか」が備わっていない人には、見ようと思っても見ることはできないわけです。

今週の福音は、イエスが七十二人という大勢の弟子を、町や村に二人ずつ派遣し、その結果報告を聞いて、また次の準備をさせるという内容です。その、二人ずつ派遣する場面で、目に留まった部分があります。2つ取り上げると、1つは、「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。」(10・4)との命令があります。

「それでは、何を持って行けというのだろうか。」皆さん疑問に思うことでしょう。それがわたしが最初に例を挙げた「何かを」持っていく、ということです。財布や、袋や、履物ではなくて、イエスの弟子である、イエスに派遣されているという何かの証しを、持って行きなさい。それこそが、あなたが人々の前に証しをする道具になります、ということなのです。

もう1つは、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」(10・5)という命令です。これは単なる挨拶ではなくて、「神の国が、遣わされた弟子たちを通して、もうそこまで来ていますよ」というよい知らせのことです。遣わされた弟子たちが神の国を与えてくれるのではありません。遣わされた弟子たちの中に、イエスから受け取った「何か」があるので、神の国の喜びが人々に届くのです。

そこで、わたしたち自身に当てはめて考えましょう。わたしたちがどこかへ出かけるとき、出かけた先で証しができるかどうかは、わたしが「イエスから託された何か」を持っている人かどうかにかかっています。イエスの弟子として、「イエスの何か」を持っている人かどうか。例を2つ挙げておきましょう。

1つは、人生で上向きの時期に考えてほしいことです。充実して、何不自由ないと感じていても、「イエスの何か」を備えているとは限りません。イエスが充実して、満ち満ちているときに何をしたか考えてみましょう。イエスは父なる神に感謝しました。たとえば、食事をするとき、御父に感謝の祈りを唱えてから、パンとぶどう酒を弟子たちに分け与えました。

こんな場面もあります。親戚のラザロが死んでしまったとき、墓の石をとりのけさせて、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」(ヨハネ11・41)と言ってから、ラザロをよみがえらせたのです。どんなことにも、神に感謝できる。この心がけを持っている人は、確かに「イエスの何か」を持っている人で、どこにいてもイエスを証しできる人だと思います。

もう1つ、すべてをはぎ取られ、不安のうちにある時期に考えてほしいことです。そんな中でも、「イエスの何か」を持っている人は、証しをする人になれます。例えば、病院に入院しているときは、すべてをはぎ取られ、不安の中にいるはずです。そんなときでも、「祈り」を忘れない人は、たとえベッドに張り付けになっていても、イエスに遣わされた立派な証し人だと思います。

わたしは、お見舞いをした時、病人の枕もとに祈祷書が置いてあるのを見ると、とても慰められ、また勇気づけられます。「あー、この人は、このベッドから離れられないけれども、イエスの弟子として、立派に証しをしている人だなぁ」と、大いに励まされるのです。

毎日大声で祈ってなくてもかまいません。ページをめくり、静かに心を神に向ける。その姿が、同じ病室の人、勤務している人、ときには医者に対しても、証しをすることになるのです。

2つ、例を挙げました。殉教にあっても、逆境にあっても、わたしたちはイエスの弟子として、自分のいるその場所で証しを立てましょう。そのためには、「イエスに託された何か」を、保ち続ける必要があります。日々の暮らしで、イエスのどんな部分を、わたしは受け取って保ち続けようか。保ち続けることができそうなものは何だろうか。考えておきましょう。

今日、霊名のお祝いを皆さんがしてくださるということで、本当に感謝の心でいっぱいです。わたしも、「これだけはイエスに託されたタレントだから、失わないようにして証しを続けたい」そう言える部分に磨きをかけていきたいと思います。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(ルカ10:25-37)
‥‥‥†‥‥‥‥