主日の福音10/06/13
年間第11主日(ルカ7:36-8:3)
多く赦された者としてイエスに従う
教区司祭の黙想会に参加してきました。高見三明大司教さまに、期間中1度だけ声をかけていただきました。「新しい任地には慣れたかね」とか言ってもらえるのかなぁと思ってましたが、「君、太ったんじゃないかね。」これだけでした。それだけかい?と思ったんですけど、まぁいいです。
さて、今週の福音朗読は、「罪深い女を赦す」という物語が含まれた箇所です。わたしはまず、イエスが示したたとえ話からもう一度考え直してみました。イエスがファリサイ派の人に示したたとえ話の登場人物は、「金貸し」と、「金を借りた2人」しか登場しません。
わたしはこのたとえは、ファリサイ派の人に考えさせる一般的なたとえとして示しているのだろうと思っていましたが、もしかしたらイエスは、「金を借りた2人」を、一方をファリサイ派の人、もう一方を罪深い女と断定していたのではないかと考え直したのです。
すると、金貸しはどう考えてもイエスご自身ということになります。イエスがお金を2人に貸しているはずはありませんから、ひとまず「何かを貸しているのだ」としておきましょう。そして、2人とも、イエスが貸し与えたものを返す当てがないのです。
50デナリオンとは、一般的な労働者の賃金50日分ですが、これは、返そうと思えば、返せる額のはずです。けれども、たとえ話の中では返すことができません。ということは、イエスから借りている「何か」は、その大小にかかわらず、人間が返せないものだということになります。
「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」(7・42)イエスの問いかけにシモンは的確に答えました。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います。」そしてイエスは、「そのとおりだ」と言われました。これも、「ファリサイ派の人と罪深い女のうち、どちらが多くイエスを愛するだろうか」と聞いているわけです。シモンは、その答えを的確に知っていました。自分よりも、罪深い女のほうが、イエスを愛していたのです。
ここで、引っかかっている疑問を解きましょう。罪深い女とシモンという名のファリサイ派の人、この2人はイエスにどんな貸し借りがあるのでしょうか。そもそも、2人ともイエスと初対面なのに、いつ貸し借りができたのでしょうか。皆さんはどう考えますか?
わたしは、人はすべて、イエスに借りがある、そう思います。それは罪です。ことの大小はあるでしょうが、大きな罪はもちろん、どんなに小さな罪でも、人間は神であるイエスに犯した罪を償えないのです。イエスが、帳消しにしてくださらなければ、髪の毛一筋ほどの罪でも、わたしたちはその罪を消し去ることはできないのです。
この、決して返すことのできない罪の赦しに、ファリサイ派の人は気づかず、罪深い女は気づいた。その違いを、イエスはたとえ話になぞらえて話しかけたのではないでしょうか。イエスを神と認め、罪深い女であるがゆえに、罪の代価を払えないことにいち早く気づいた。イエスのもとに涙ながらに近づいた女性は、どんなに小さな罪でも、償えないことに気づいた人間の代表だったわけです。
イエスは女に、「あなたの罪は赦された」(7・48)そして「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と声を掛けました。「罪深い女」と町中で噂されていた女性でしょうから、「あなたの罪は赦された」というのはすんなり理解できます。問題はそのあとの、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(7・50)という呼び掛けです。彼女の行動から信仰が読み取れるのでしょうか。
この女性は、どんなに小さな罪でも、人は償えないのだと気づいたのでした。すると、目の前におられる神の子イエスに、憐れみを願うしかない。彼女はそう考えて、あのような大胆な行動に出ます。そこにイエスは、彼女の信仰を見いだしたのです。ファリサイ派の人シモンにも、自らの罪を悔いる機会はあったはずですが、イエスにすがるだけの信仰は持ち合わせていませんでした。
この物語が、わたしたちに呼び掛けていることは何でしょうか。それは、わたしたちは、神であるイエスに、すべてを委ねなければ、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言ってもらえない、ということです。
わたしたちは、どんなに小さな罪でも、自分で消し去ることのできない被造物です。神が、帳消しにしてくださらなければ、借りを返せない存在です。そのことがはっきりわかれば、「あの人より自分はましだ」などと、誰かと自分を比べても仕方がありません。誰かと自分を比べることなく、まっすぐ神に心を向けて、「世の罪をのぞきたもう神の子羊、われらをあわれみたまえ」と申し上げましょう。
ところで、わたしたちが犯した罪を決して拭えないとすれば、「何をしても無駄だ」と、諦めてもよいのでしょうか。今日の福音朗読のもう1つの出来事が参考になります。マグダラのマリア、ヨハナ、スサンナ、そのほか多くの婦人たち。彼女たちはイエスと弟子たち一行に奉仕していました。「わたしたちはこれくらいしかしてあげられない」そういう気持ちだったのではないでしょうか。これは大いに参考になると思います。
皆さんの身の回りを考えてみてください。大それたことをする機会はそんなにないかもしれませんが、ちょっとしたお手伝いの機会はたくさんあると思います。それも、「これくらいしかできんけん」と言えるような、小さな手伝いの場は、きっとあると思います。ぜひ、そんな協力の場面を逃さないでください。そうした小さな場面で、確実にお手伝いすることが、神の深いあわれみを体験する近道だからです。
わたしたちは、神への借りを、これっぽっちも返せない存在です。よくそのことをわきまえ、できる小さな奉仕を、「こんなことくらいしか、わたしにはできません」そんな謙虚な心で確実に積み上げていきましょう。
一行に奉仕する婦人たちの中に、わたしたちの教会の守護聖人であるマグダラのマリアが登場しました。返せない借りがあるからこそ、イエスへの真の信仰が芽生えます。聖女に倣い、すべてを主イエスに委ねて、従っていくことができるよう、恵みを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第12主日
(ルカ9:18-24)
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