主日の福音10/06/06
キリストの聖体(ルカ9:11b-17)
わたしたちも人々のための食べ物になろう

今日は、「キリストの聖体」の主日です。今日のキリストの聖体の主日で、一連の特別な名前の付いた日曜日が終わり、来週からは「年間の主日」に移ります。念のため、名前の付いた主日を思い出しますと、ご復活の後のご昇天から始まって、聖霊降臨、三位一体、キリストの聖体、この4つが、連続してやってきます。皆さんもぜひ、4つの主日の名前と並び順を覚えてほしいなと思います。

さて、キリストの聖体の主日に当たってわたしが考えた要点は、「食べ物は、食べられたら、目には見えなくなる」ということです。この、一見当たり前のようなことを鍵に、聖体について黙想してみたいと思います。

まず、ふだんの食事を考えてみましょう。おいしくいただいた食事は、すっかりおなかの中に入って、ほとんど何も残りません。けれども、何も残らないと言っても、何も食べなかったのとは違います。食べた物は栄養となり、体を養うのです。

では、聖体も同じように考えることができるでしょう。ミサに参加し、聖体を拝領すると、わたしたちは恵みに満たされます。食べ物となったキリストは、わたしたちが拝領してしばらくすると見えなくなりますが、拝領しなかった人とは明らかに違いがあります。拝領した人は確かにキリストに養われるのです。

また、食べ物は、食べてしまえば消えてなくなるけれども、要らないとは決して言えません。補助食品も含めて、どうせ消えてなくなるものだから、毎回毎回食べなくてもよいなどとはだれも考えないでしょう。同じように、わたしたちの心を養う聖体も、見えなくなってしまうのだから要らないではないか、とは言えないのです。

むしろ食べ物は、食べても食べてもなくなってしまうものなのに、わたしたちの生活になくてはならないものなのです。聖体も、拝領して30分もすればおそらく見えなくなってしまうものですが、わたしたちの心の糧として、命の糧として、なくてはならないものなのです。

ここから、もう1つのことを考えたいと思います。イエスは、わたしたち人類すべてのために、十字架の上で命をささげ、お亡くなりになりました。わたしたちの目から、消えてなくなったのです。食べ物が、食べられることで消えてなくなるように、イエスは、十字架の上で命をささげることで、わたしたちのために消えてなくなられたのです。

十字架の上で命をささげたことで、見えなくなるというのは意味深いと思いました。目には見えなくなりましたが、復活したイエスが弟子たちを、婦人たちを、信じるすべての人を生かし続けました。食べ物が消えてなくなっても、食べた人を生かすように、イエスは十字架上で亡くなられて復活し、わたしたちも含めすべての人を生かしてくださいます。つまり、十字架の上で命をささげた姿の中に、聖体の恵み、聖体がわたしたちにもたらす働きが、示されているわけです。

食べ物は、人間になくてはならないものだと言いました。聖体も、信じる人にとってなくてはならないものです。そしてすべての人にとって、イエスが十字架で亡くなられたことは、なくてはならないものだったのです。

そこで、わたしたちの生活を振り返ってみましょう。わたしたちは食べ物の大切さを知り、聖体も信じる人にとって必要であることを十分わきまえています。もう一歩踏み込んで、生活する中で出会うすべての人のために、体の食べ物でない、心の食べ物を指し示してあげる必要があるのではないでしょうか。すべての人の命の糧として、十字架の上で亡くなられたキリストを、何かの形で指し示す必要があるのではないでしょうか。

食べ物の大切さも知っています。聖体に養われる素晴らしさも知っています。では、出会うすべての人のために、聖体に養われる素晴らしさを、どうやって示していけばよいのでしょうか。

次のような方法はどうでしょうか。「わたしたちが、この社会にあって聖体となる」という方法です。イエス・キリストそのものになりきることはできませんが、わたしたちが、出会うすべての人の食べ物となることは可能だと思います。

わたしたちが出会う人々は、「すべてにこえて、神を愛する」という食べ物を知らないかもしれません。わたしたちが出会う人々の中にあって、「すべてにこえて、神を愛する」姿勢を示すなら、出会った人々はわたしを通してイエス・キリストの第一の掟を食べることになります。

「隣人を、自分のように愛する」という食べ物を、「そんなもの受け入れられない、食べられない」と思っているかもしれません。そんな中で、わたしたちが隣人を自分のように愛することで、イエス・キリストが与えてくださった第二の掟を知り、「受け入れてみよう、食べてみよう」と考えるかもしれません。

つまり、出会う人々の真ん中で、イエス・キリストが示した食べ物を食べ、「これは食べることができます。これを食べると豊かになります」と証しをすることで、わたしたちは出会う人々の食べ物、人々のための聖体となれると思うのです。

食べ物は大切です。体の食べ物も、心の糧も大切です。わたしたちはイエス・キリストという、最高の命の糧をいただいているのですから、その恵みを出会う人々に届けましょう。まずそうな食べ物ではいけません。わたしたちがおいしそうな食べ物となって、出会う人々にイエス・キリストに養われる素晴らしさを証ししましょう。わたしたちが拝領する聖体が、この証しのわざを可能にしてくれます。
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‥次の説教は‥‥
年間第11主日
(ルカ7:36-8:3)
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