主日の福音10/05/30
三位一体の主日(福音書)
三位一体の神秘に生活の中で触れる

今日は三位一体の主日です。今回の説教は、ずいぶん苦労しました。水曜日の出張の時から、何を話そうかなぁと考えてきたのですが、木曜日に福見の司祭館に泊まった日にもまとまらず、金曜日の晩にもまとまらず、これは困ったなと思いながら土曜日の朝を迎えました。

土曜日の朝から、気分転換に髪を洗おうと思いまして、シャンプー1回分を手に取り、頭を洗面台に突っ込んだときに、聖霊が降りまして、あっ!これで何とかまとまりそうだと直感しました。この日のシャンプーと、三位一体が、わたしの中では1本の糸でつながったのです。

まず、三位一体の神秘を思いめぐらしてわたしが感じる神の姿を示したいと思います。それは、父と子と聖霊が、完全に一体でありながら、どの面を取り上げても、同じであるという姿です。

唯一の神で、父と子と聖霊の三つのお方(位格)でおられます。それは、三位一体の神は、どの面を取り上げても、まったく同じ神であるということです。御父の姿から眺めても、御子の姿から眺めても、聖霊の姿から眺めても、同じ唯一の神が見える、ということです。これが、わたしの今回の黙想で得られた答えです。

この黙想の実りが、シャンプーとどうつながるかと言いますと、シャンプーの中身は、全体が均一に混ぜあわされていますから、どこをとっても同じシャンプーです。1回目にポンプで押し出した部分も、50回目に押し出した部分も、同じ効果を持っています。人間の作ったものですから、完全ではないかもしれませんが、どこを選んで取り出しても、同じシャンプーの効果を得られるのです。

洗面台に頭を突っ込んで、頭を洗っているときに、あー、これは使えるなと思いました。三位一体の神は、もちろん混ぜあわされたものではありませんが、父と子と聖霊の三位の神でありながら、唯一の神でおられます。そして、どの姿から眺めても、同じ唯一の神を見ることができるのです。

わたしたちのほとんどが、御子イエスから神の姿を眺める人々だと思いますが、聖霊から神の姿を眺めようとする人々、たとえばそれは、聖霊運動に熱心な人々も、思い込みを取り除いて神を見出そうとするなら、同じ神を見つけ出すはずなのです。

ちなみに、全体と、部分とが、同じでないものもこの世の中にはあります。いちばんわかりやすいのは、お札です。お札は、50分の1に切ったものと、全体とでは同じとは言えません。シャンプーや石鹸や、豆腐やジャガイモは、50分の1でも同じと言えますが、お札はそうはいきません。全体で価値がありますが、ほんのわずかの切れ端では、価値がなくなってしまう種類のものです。

ここから、三位一体の神のお姿を考える材料になるものは、シャンプーでも石鹸でもよいのですが、ある部分だけでは全体と同じと言えないものは、材料としては使えないということです。そこで、わたしたちの生活の中に、三位一体の神秘に心を向けるものを見つけてみましょう。

すぐに思いつくものは、家族の愛です。家族が互いに持っている愛は、それが真実なものであれば、保護者のほうから眺めても、子供のほうから眺めても、同じ愛であるはずです。夫婦の愛、同じ志で生活をしている人、たとえば修道生活をしている人々の相互愛も、真実なものであれば、一方から見たものが、他方から見て食い違っているということはないはずです。そういう愛の中で、共同体が、夫婦が、家族が暮らしているなら、そこから三位一体の神の愛を学ぶことができます。互いの愛でありながら、唯一の愛なのですから、そこに生きる人々は、三位一体の神の愛をすでに生きているのです。

もし、唯一の愛を生きていないとしたら、その愛にとどまっていても三位一体の神の愛に向かうことができません。この子を独占して、わたしの思い通りに支配しよう。そうした考えの保護者がもしいるとして、その人の愛は子供の目から見たら迷惑この上ない愛なのですから、どれだけその独りよがりな愛を続けても三位一体の神の愛に触れることはできないのです。

生活に結びついていて、ぜひ考えてほしいものをもう1つ示したいと思います。それは、ミサ聖祭です。ミサに、週に1度参加している人も多いと思います。中には、参加できるのに、年に数回とか、あるいは申し訳程度に年に1度だけ通っている人もいるのかもしれません。

すべての人にもう一度考えてもらいたいのは、日曜日を含む主日のミサと、それ以外の週日のミサには、違いがあるだろうか、ということです。三位一体の神を学ぶ材料は、全体として唯一であり、部分を取っても全く同じものが学ぶ材料に適していると言いました。

わたしは、ミサもまた、最高の学びの場ではないかと思うのです。全世界で、365日絶えずミサがささげられていますが、主日のミサは恵みがいっぱいあって、週日のミサはちょっとしか恵みがないなどということがあるでしょうか?

主日のミサの中でイエスは、ご自分を完全に御父にささげているけれども、週日のミサでは部分的にしかイエスはご自分を御父にささげないというようなことが、起こりうるでしょうか?決してそんなことは起こり得ないと、だれでも分かります。

そこで、無理をしない範囲で結構ですから、週日のミサに参加してみましょう。高井旅教会は、物理的に無理なのですから、たとえば今話したミサのことを、祈りに換えて、主日には祈りをするけれども、週日には祈りをしないなぁと感じたら、祈りは主日と週日で効果が変わるだろうか?そんなはずはないから、毎日祈りをささげよう。そんなふうに当てはめてみてください。

週日のミサに参加してなかった人が、1週間のうち1日でも参加するようになれば、どの日を取り上げても全く同じ恵みであるミサを通して、三位一体の神をより近くに感じることができるようになると思います。

三位一体の神の神秘は、決して雲の上の遠い遠い教えではありません。日々の生活で生きることのできる教えです。ぜひ、今日示したことを1つの参考にして、わたしたちは三位一体の神のお姿に、生活の中で触れることができるのだと、自信を持って派遣されていくことにいたしましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(ルカ9:11b-17)
‥‥‥†‥‥‥‥