主日の福音10/05/23(No.477)
聖霊降臨(ヨハネ20:19-23)
聖霊を、一人一人の真ん中に迎える

誰でも、人によって感じ方は違うものです。何に感動するか、何が心に残るか、人それぞれです。聖書の朗読を聞いたとき、どこに心が動くか、これも人それぞれで、中田神父が注目して取り上げている箇所が、必ずしも全員に関心を持ってもらえるとも限りません。

そんなことを踏まえた上での話ですが、小学生の教会学校を受け持っている中で、聖霊降臨の出来事を一緒に学ぶ機会がありました。第1朗読の出来事です。わたしは、この使徒言行録の記録の中で、「すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国の言葉で話しだした。」(使徒2・4)という部分に興味を持ったのですが、生徒たちはそうでもありませんでした。

生徒はこう質問してきます。「神父さま、『炎のような舌が別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった。』と書いてあるけど、髪の毛は燃えんやったとね?」「髪の毛は・・・燃えんやろうなぁ」「どうして?ねぇ、どうして?」

まぁ、ふつうにわたしたちは「心が燃える」と言ったりしますから、”霊”の炎は、心を燃やす炎だと考えれば、髪の毛の心配はいらないわけです。けれども、子供たちはとても興味があったようでした。

聖霊降臨の日に朗読される福音についても、どこに注意が向くかは、人によってさまざまです。わたしは、次の部分に目を留めました。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」特に、「真ん中にお立ちになったこと」が、わたしには強く心に残りました。

今日朗読した箇所は、復活後に弟子たちに現れたイエスを、ヨハネが書き残した場面でしたが、「そこへ、イエスが来て、『あなたがたに平和があるように』と言われた」と書き残してもよかったわけです。「真ん中に立つ」というのは、よほど意識しなければ、気が付かない動作なのではないでしょうか。

そのことから、わたしはこう考えました。ヨハネ福音記者は、出来事を、ただイエスが復活後に弟子たちに現れたとは見ていなかったのだと思います。そうではなく、弟子たちの真ん中に立ったこと、ここに注目していたから、あえて付け加えたのではないでしょうか。端っこに立ったのではなく、真ん中に立った、ということです。

ここにはいろんな意味が込められていると思いました。イエスが来て真ん中に立つわけですから、弟子たちがいた家の真ん中は、ぽっかり空いていたはずです。それは、中心となるべき精神的な支柱が失われていたということでもあるし、弟子たちがイエスを自分たちの真ん中にお迎えしたという意味もあると思います。

彼らは、復活したイエスを自分たちの真ん中に迎えたとき、平和に満たされたのです。家の戸に鍵をかけるほど、恐怖におびえていたのに、イエスが真ん中に来てくださったことで、恐怖は去り、本来のあるべき姿を取り戻したのでした。

復活したイエスは弟子たちの真ん中に立ち、彼らに息を吹きかけてこう言いました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20・22-23)

イエスは弟子たちに、「聖霊を受けなさい」と促します。ここですでに考えてきたことを思い出す必要があります。イエスの招きは、弟子たちの真ん中に、聖霊を迎えなさいということではないでしょうか。もっと言うと、弟子たち一人一人の中心、精神的な支柱として、聖霊を受けるように促されているのではないでしょうか。

その結果、弟子たちはイエスと同じように、罪を赦すという偉大な業を行うことになります。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」聖霊が、弟子たち一人一人の中心にいてくださるのでなければ、このような偉大な業を行えるはずがありません。

弟子たちへのこうした促しを、イエスはわたしたちにも求めていると思います。あなたがたが平和に日々を暮らすために、わたしを真ん中に迎えなさい。わたしがあなたたち一人一人の真ん中に立つとき、あなたには平和がもたらされます。聖霊を、生活の中心に迎えなさい。聖霊があなたがた一人一人を導いて、偉大な業を行う人にしてくれます。イエスはそうわたしたちに促しているのではないでしょうか。

イエスを自分たちの真ん中に迎えるということで、ついこの前興味深い経験をしました。第1と第3木曜日に病人訪問を行っていますが、ある病院を訪ねてご聖体を授け、帰ろうとしたときに、帽子を忘れたまま帰ろうとしていたのです。

そのご婦人は、わたしが帽子を忘れているのに気づき、「神父さま、帽子忘れていますよ」と声をかけてくれました。よく気が付いたなぁと感心してご婦人に礼を言い、帰りました。話のついでに、しばらくその帽子をかぶっておきたいと思います。

帰り道、わたしは車の中で、いつものように日曜日の説教をどうまとめるか考えながら司祭館に戻っていたのですが、さっきのご婦人とのやりとりを思い出したのです。わたしが病人の立場だったら、帽子を忘れていますよと声をかけることができただろうか?後で思い出して、あぁ、声をかけてあげればよかったなぁと後悔するのが関の山ではないだろうかと思ったのです。

どうしてこのご婦人はよく気が付いて教えることができたのだろうか。あれこれ考えてみて、こんな思いにたどり着きます。あのご婦人は、わたしを真ん中に迎えてくれたから、帽子のことにも気づいて声をかけることができたのではないか。

つまり、こういうことです。そのご婦人は、ご聖体のイエスを携えたわたしを真ん中に迎えて、わたしが無事にその場を立ち去るまで、その場の中心にわたしを置いてくださっていたということです。わたしと言うよりもむしろ、ご聖体のイエスを中心に置いてくださっていたのでしょう。そして当然、中心にいる人を最優先に物事を考えるわけですから、わたしが無事に帰っていくまで、そのすべての動作に注意を払ってくれた、ということです。

もし、ご聖体を携え、見舞いに来たわたしを中心に置いてくださっていなかったら、結果は違っていたことでしょう。自分の脇に中田神父が座っているという感覚だったら、帽子にも気づかず、後で気づいても「あー、神父さまも忘れっぽいなぁ」で終わっていたかもしれません。ご聖体を運んできたわたしをその場の中心に置いてくださった。それが、小さな出来事の中に、すばらしい意味を見つけることに結びついたのだと思います。

ちょっとしたことですが、そのちょっとしたことの中にすばらしい意味を見つけることができるのは、中心にイエスをお迎えするかどうかにかかっています。今日は聖霊降臨ですから、聖霊を自分の中心にお迎えすることができるかどうかにかかっている、と言い換えてよいでしょう。同じことは、わたしたち皆に、起こりうることなのです。

1つの祈りを、今週1週間の道しるべにしましょう。祈祷書の中にある、「始業の祈り」です。「聖霊来りたまえ、信者の心に満ち給え。主の愛熱の火を、我らに燃えしめ給え。」「聖霊来てください」と願うとき、ぜひ生活の真ん中に、一人一人の真ん中に来てくださるように願いましょう。聖霊を、真ん中に迎えることで、わたしたちはなすべきこと、歩むべき道を、正しく導いてもらうことができます。
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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(ヨハネ16:12-15)
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