主日の福音10/05/02
復活節第5主日(ヨハネ13:31-33a,34-35)
イエスの掟はなぜ新しいのか

司祭になりたてのころ、ゆるしの秘跡で忘れられない経験をしました。告解場に座っていると、1人のお父さんがやって来て、「神父さま、昔の仕方でお願いします」と言うのです。わたしは18年前に司祭になりましたが、そのお父さんの言う「昔の仕方」がよく分からなかったのです。

告白に来たお父さんは、わたしが面食らっているのもかまわず、自分のペースで告白をし始めました。
「前の告解はいついつしました。罪はこれこれです。おわりです。」

わたしはさらに面食らいました。わたしの知っている範囲では、昔の告白の祈りは、「我、霊父の御祝福をこいねがう」と前置きしてから告白が始まっていたと思うのです。それがいきなり、「いついつしました、罪はこれこれ、終わり」とやられたものですから、わたしのほうが腰を抜かして、「このお父さんの告白の仕方のほうが、よっぽど最新式じゃないか」と思ったのでした。

告白はそれだけでは終わりませんでした。「神父さま、終わりです!」と催促されまして、それでわたしは夢から覚めて、あ〜、わたしの指示を待っているのだなと理解し、「償いはこれこれの祈りを唱えてください。」「それでは、『悔い改めの祈』りを唱えてください」と言ったのです。

「悔い改めの祈りを唱えてください」と言ったのはよかったのですが、お父さんの祈りが始まりません。耳を澄ましてみると、向こうでぶつぶつ何かを言っているようなのです。「悔い改めの祈り?悔い改めの祈り・・・知らんなぁ」あー、そうかぁ。「悔い改めの祈り」では意味が分からなかったんだなと察して、「それじゃあ、『痛悔の祈り』を唱えてください」と言い直したのです。

すぐに反応が変わりました。「あー、『痛悔の祈り』ね。それなら分かる。」そう言って、こう唱えました。「神よ、わたしはあなたに罪を犯したことを心から悔やみ、お助けによってこの後再び罪を犯さないと、固く固く決心いたします。」「痛悔の祈り」と言って、「悔い改めの祈り」を唱えるのも傑作ですが、「固く固く決心いたします」と答えたのがわたしには面白いなぁと感じました。

わたしはこのときに、「昔の仕方」とか「新しい仕方」ってなんだろうなぁと考えました。あとでこの話は説教の終わりにつながってきますので、記憶しておいてください。ひとまず、福音の学びに入りましょう。

イエスは弟子たちに掟を授けました。しかも、「新しい掟」と念を押しました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15・34)

イエスが「新しい掟」と念を押していることに注意しましょう。「新しい」の受け取り方に注意が必要です。何かを新しいと言うときは、2つの場合が考えられます。1つは、「何がどう新しいのか」です。もう1つは、「なぜ新しいと言えるのか」ということです。

お魚で考えてみましょう。日曜日ごとに子どもたちは賄いのシスターに「シスター、釣りに行こう」とせがんでいるようです。どうやら大人が同伴していないと磯に行ってはいけないというのが理由のようですが、今日釣ってきた魚は、釣って3日経過した魚より当然新しいわけです。これは、「何がどう新しいか」に入ります。

他方、仮に釣ってきた魚がアラカブだとして、もしもこのアラカブが「卵から育てたアラカブ」だとしたら、それは画期的に新しいアラカブのはずです。もしもこの「卵から育てたアラカブ」が釣って1週間経っていたとしても、「卵から育てた」ものであるとしたら(そんなアラカブがいればの話ですよ)、新しいと言えます。これは、「なぜ新しいと言えるか」に入る新しさです。2通りの新しさ、みなさんも違いは分かると思います。

そこで、イエスが言われる「新しい掟」について考えてみましょう。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」これは、2通りの新しさのどちらに入るのでしょうか。

「新鮮」という意味の新しさで考えると、「互いに愛し合う」ことはまったく新しくありません。旧約聖書の中のレビ記という書物に、こう書かれています。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ19・18)イエスがおいでになるはるか前から言い伝えられているのですから、いまさら何が新しいのか、と言うくらいに古い掟なのです。

そうだとすると、残る1つの新しさを考えなければなりません。「なぜ新しいと言えるのか」ということです。なぜ新しいと言えるのか。それは、「隣人を愛する」だけではなく、「敵をも愛する」。もっと言うと、互いにすべての人を愛しなさいと言っているところが画期的なのです。これまで誰も、「敵を愛しなさい」とは教えられてこなかったのです。違う国の人、違う信仰の人を愛しなさいなどということを聞いたことがなかったのです。

ところが、イエスはまったく新しい相互愛を求めます。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」隣人も、敵も、違う国籍、違う宗教、豊かな人も、貧しい人も、わけ隔てなく愛しなさい。今までこんなこと誰も求めなかった。これが、イエスの求める新しさです。

なぜ、そんな相互愛を求めるのでしょうか。イエスはなぜすべての人を愛する必要があるかも説明します。それは、「わたしがあなたがたを愛したのだから」ということです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」イエスは、誰も分け隔てしないで愛した。これが新しく示された互いに愛し合うお手本です。

イエスのお手本は、十字架の上に完全に現されました。イエスは正しい人のためだけに命を捧げたのではないのです。隣に磔にされた殺人犯のためにも、イエスの十字架のそばで泣いていた婦人たちのためにも、磔の場面から逃げ去った弟子たちのためにも、すべての人のために命を捧げたのです。すべての人のために命を捧げたのでしたら、わたしのためにも命を捧げてくださったのではないでしょうか。

そのイエスが、掟を授けます。「互いに愛し合いなさい。」分け隔てなく愛し、全人類のために命を捧げたイエスが「互いに愛し合いなさ」と命じたのであれば、わたしたちがあの人は愛さなくてよい、あの人は嫌ってもかまわない、あの人には文句を言ってもよいということになるでしょうか。わたしは決してそうであってはならないと思います。すべての人を、互いに愛し合うのでなければ、イエスの命令を果たしたことにはならないのです。

今日、わたしたちはここにミサに集まりました。考え方の違う人が集まりました。礼拝に参加するという目的は同じですが、わたしと考えの違う人が集まっています。「わたしと考え方が真っ向から食い違うので、あの人は愛せません」この言い分は、本当に通用するでしょうか。

正直に言いますが、中田神父が見ても、わたしと考え方が真っ向から食い違う人はいるのです。ここにいるという意味ではありませんが、18年、5つの教会を巡回して、真っ向から食い違う人が誰もいなかったといったら嘘になります。わたしは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように」というイエスの新しい掟の、足元にもたどり着いていなかったと思うのです。

ここで説教の最初に話したことを思い出して欲しいのですが、「昔の仕方でお願いします」と告解のときにお願いしたお父さんがいました。「昔の仕方」とか「新しい仕方」にこだわることこそが、もはや鮮度を失っていると思います。もしも、誰かが「昔の仕方でお願いします」と言われたら、司祭は慌てることなく、その人にとって神のゆるしが十分伝わるような接し方をしてあげる。これこそが、画期的な新しいゆるしの秘跡ではないかなぁと思いました。

イエスは、わたしたちに新しい掟を授けました。分け隔てなく、互いに愛し合う生き方です。自分の信念と合わない人と、互いに愛し合いましょう。わたしが正しいと思っていることに異議を唱える人と、互いに愛し合いましょう。

イエスが、「わたしがあなたがたを愛したように」とのお手本を示したのですから、わたしたちには「この人は愛せません」「ミサに来ている中で、この人は受け入れられません」などという限界を設けてはいけません。まったく新しい、画期的な相互愛の生き方を、困難を感じても一歩ずつ進めていくことができるように、ミサの中で助けを願いましょう。
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(福音書)
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