主日の福音10/04/25
復活節第4主日(ヨハネ10:27-30)
イエスはわたしをまるごと受け入れてくださる

最初に、中学1年生の時の経験から話したいと思います。わたしは中学1年生で神学校に入りましたが、神学校に入って最初の夏休み、夏休みの最初の日曜日の出来事です。その日わたしはミサが始まる前にトイレに行ってなかったため、たまたまトイレに行きたくなって、ミサを抜け出してトイレに行ってきました。

戻ってみると、玄関で知らないおじさんが2人、話し込んでいました。そのおじさんたちの横を通り過ぎたとき、たまたま、おじさんたちの会話が耳に入ったのです。おじさんたちはこう言っていました。

「輝あんちの息子の神学校に行ったってや?」「おう」
「ほんなごてや?」「ほんなごったい」
「なんのそん。輝あんちの息子の神父にならうっとっちかよ」

何とわたしのことを、おじさん2人は噂していたのです。しかも、わたしが目の前を通っているのに、そのことも知らずに、悪口を言っていたのです。わたしは、顔が真っ赤になるくらい恥ずかしい思いをしました。それと同時に、「見とれよ」という対抗心もメラメラと燃えてきました。「絶対にこのおじさんたちを見返してやる」それが、わたしの最初の頃の召し出しの原動力だったかもしれません。

2年前に亡くなったわたしの父親は輝明と言うのですが、確かに、鯛ノ浦ではよく知られたガキ大将だったようです。あとで聞いた話ですが、自己紹介でわたしが父の名前を出すと、みんな決まって「輝明さんの息子ですか?輝明さんは悪かったもんねぇ。」と、口を揃えて言うのです。鯛ノ浦だけではなく、船隠でも、佐野原でも言われました。ですから、父親を知っている人からすれば、あの父親の息子が、神父になれるはずがない。有り得ないと言うのも無理はないのです。

あのときのおじさん2人は、わたしの父をよく知っている人だったに違いありません。けれども、だからと言って、おじさんたちがわたしを知っていることにはなりません。確かに、名うての荒くれ者の息子ですが、すべてを知っているわけではなかったのです。その証拠に、わたしが横を通り過ぎたときも、おじさんたちはわたしのことを悪く言っていたわけです。

人が、どんなに相手のことを知っていると言っても、限界があります。何十年の付き合いがあっても、すべてを知り尽くしているとはいえません。夫婦であってもそうでしょう。50年連れ添った夫婦であっても、知らないことはあるのではないでしょうか。

ですから、わたしたちが誰かのことを知っていると言った場合、「ある程度知っている」ということであって、どんなにおまけをしても、せいぜい「よく知っている」という程度のものなのです。誰も、誰かのことをすべて知っているなどと言うことはできないのです。

そのことを踏まえた上で、福音に目を向けてみましょう。イエスははっきりこう言います。「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」(10・27)イエスは、ご自分の羊を知っているのです。その際、何も言葉を付け加えず、ただ「知っている」とだけ言います。

どれくらい知っているのか。これは押さえておく必要があります。イエスが「知っている」と言うからには、「すべてを知っている」という意味だと考えるべきです。「だいたい知っている」というのでも、「かなりよく知っている」というのでもありません。すべてを、余すところなく知っているのです。

すべてを、余すところなく知ると、新しい関わりができあがります。聖書の中で、「知る」という言葉は、特別な意味を持つことがあります。聖書の中では、「知る」ということが、「愛する」という意味も持つことがあるのです。そのことがここで当てはまります。イエスはご自分の羊を「知っている」だけでなく「愛している」のです。

「知る」ということが「愛する」ということと同じ意味になるのは、特別な場合です。つまり、「すべてを知り、すべてを受け入れる」そういう場合でなければ成り立ちません。結婚を前提としている人同士が、相手の長所も短所も、すべて知った上で受け入れる。この場合は、相手を知るということが、相手を愛するということになるわけです。

そう考えるとき、イエスが仰った「わたしは彼らを知っている」というのは、すべてを知り、愛してくださっているという意味になります。きっとそれは、わたしたちが欠点も多々あるけれども、イエスは十分承知の上で、愛してくださっているということではないでしょうか。もっと言うと、イエスから愛してもらうにはあまりにも釣り合わない弱い人間を、それでもかまわず愛してくださる。そんな計り知れない奥深さが含まれているのではないでしょうか。

「わたしは彼らを知っている。」当時のおじさんたちは父親から推理してとてもじゃないが神父になれっこないと、断定しました。ところがイエスは、まだ海のものとも山のものともつかぬ少年を知ってくださり、「うん、輝明の息子だから手が掛かりそうだけど、それでもわたしはあなたのことを知っているよ。そして、あなたのことを愛しているよ。だから、わたしに従ってきなさい」と呼び掛けて、使ってくださったのだと思います。

イエスは、わたしがどんな素材か、十分わかった上で、愛してくださった。だから、わたしにも働きの場が与えられました。これはわたしに限ったことではないはずです。「なんのそん。あれが役員の勤まっとっちかよ。」冷静に考えればそうかもしれません。けれども、イエスはわたしたちを長所も短所も丸ごと愛してくださることで、わたしたちの働きの場を用意してくださるのです。

向き・不向きはあるかもしれない。けれども、イエスが丸ごと愛してくださって、わたしたちにイエスに従うための場所、活躍の場所を用意してくださったのですから、精一杯神さまが置いてくださった場所で働いてみる必要があるのではないでしょうか。

「わたしは彼らを知っている。」イエスのこの言葉を、どこまで信頼するか。これが今週わたしたちに求められていると思います。イエスの言葉をどこまでも信頼し、従っていく。そのための力を、今日のミサの中で願い求めましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
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