主日の福音10/04/18(No.472)
復活節第3主日(ヨハネ21:1-19)
「ほんなごったい」と言える信者になろう

はじめまして。中田輝次神父と言います。よろしくお願いします。フェリーで長崎の大波止を出て、奈良尾に降りましたが、付き添いの2人は船の中でワンカップをさっそく空けて景気づけしていましたので、その2人も車に乗せ、わたしが車を運転してフェリーを出てしまいました。

降りた時にチラッと外を見たのですが、「誰も、ターミナルにはお迎えに来とらんよね」と確認し、まっすぐ高井旅教会に向かったのです。ターミナルの待合所では、横断幕を準備して、さらに桐教会の神父さま、真手ノ浦教会の神父さまがお迎えに出ていたそうですが、全員を置き去りにして出発してしまいました。申し訳ありませんでした。

わたしは鯛之浦出身です。小さい頃、耳で覚えた言葉がたくさんあります。「あっぱよ」「ざぁまよ」「ほんなごてや」「なんのそん」これ、全部わたしの体に染み付いています。すごくいい言葉だと思います。こんな言葉で、聖書の解き明かしができたら、どんなにすばらしいだろうと思い、今日の説教を考えてみました。

すると、意外や意外、今日の福音朗読の中に、「あっぱよ」「ざぁまよ」「ほんなごてや」「なんのそん」が隠されていることに気づきました。実は1ヶ月くらい前から、「あっぱよ」「ざぁまよ」で説教ができないものかなぁと、浜串教会の皆さんのことを思いながらずっと考え続けていたのです。まさかとは思っていましたが、考えているうちに、「あー、これはいけるかもしれんぞ」という感触をつかんだのです。

では少しずつ、わたしたちが昔から使ってきたすばらしい言葉を掘り出してみましょう。イエスが、夜に漁をしたのにさっぱり魚がとれず、しょんぼりしている彼らにこう言いました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(21・6)そこで、網を打ってみると、「魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」となっています。

ここに、1つ目の言葉が隠れています。分かりますか?「魚があまりに多くて」これは、「ざぁまに魚のとれた」ということですよね。「あまりに多くて」と言っているのを「ざぁまにとれた」と言えば、2千年前の遠い話ではなくて、すぐ近くの、わたしたちの誰もが親しみを持てる出来事になるのではないでしょうか。

2つ目の言葉を探しましょう。「ざぁまに魚のとれた」それを見て、イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言いました。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、「上着をまとって湖に飛び込んだ。」(21・7)とあります。わたしは正直に言うと、ペトロの行動は理解に苦しみます。

皆さん、よくよく考えてみてください。人は、本当に裸同然だったら、湖に飛び込むのでしょうか。あなたは、裸同然で舟に乗っていて偉い人とばったり会ったら、海に飛び込みますか?わたしは少なくとも、飛び込んだりはしないと思います。でも、何かがあって、ペトロは湖に飛び込んだのです。何があったのでしょうか。

わたしは、「あっぱよー!」と思ったから、湖に飛び込んだのだと思います。あまりにもびっくりして、「あっぱよー!」と思ったので、思わず湖に飛び込んだのではないでしょうか。きっと、「あっぱよー!」としか言えないくらい驚かないと、あんな理解に苦しむ行動はしないのではないでしょうか。

3つ目の言葉を探しましょう。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいになりました。問題はここからです。「それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」(21・11)らしいのです。大きな魚が百五十三匹です。大きな魚って、1キロくらいでしょ?だったら水揚げは153キロにもなります。

細い糸で編んだ網に、言ってみればお相撲さんが乗っかっている状態です。網が破れないということがありえるでしょうか?わたしたちは内心こう思うはずです。「なんのそ〜ん。」それが、正直な反応です。「なんのそ〜ん」と言いたくなるほど、とても信じられないことですが、神の特別な計らいがあったのかもしれません。

そして最後、今日の福音朗読から4つ目の言葉にもたどり着きます。残る1つの言葉は「ほんなごてや」です。これは今日の福音朗読のどこに見つけることができるのでしょうか?それは、あなたが、誰かに、今日の物語を話して聞かせたときです。あなたにとって身近な人で、異なる信仰を持っている人や、何も信仰していない人に、今日の話を語り聞かせるとき、聞いたひとはおそらく「ほんなごてや?」と問い返すことでしょう。

わたしはそのとき、なんと答えるでしょうか?夢物語だと返事するのでしょうか?いえ、違います。「ほんなごったい」と答えるべきです。ただし、「およー。ほんなごったい」と答えるためには、わたしたちが聞いて知っていることが、恥ずかしくないものであり、自信を持って話して聞かせることができるものなんだと納得していなければなりません。

つまりこういうことです。わたしたちが自信を持っていることに失敗し、下を向いているときに、イエスは必ずわたしたちに声をかけ、必要な指示を与え、わたしたちを助けてくださる。しかも、あふれるほど豊かに恵みを与えてくださるということです。このことを福音から学び、生活の中でも体験しているなら、「ほんなごてや?」と言われたときに、「およー。ほんなごったい」とはっきり言うことができるのです。

最後に、わたしたちのこれからの目標を示しておきましょう。それは、まずイエスの一生涯について書かれた福音書に、わたしにもその経験はある、そう言えるくらいに親しむことです。そして、誰か異なった信仰の人に、イエスがわたしたちを助けてくれるんだと話します。きっと相手は、「ほんなごてや?」と聞き返すでしょうから、「およー、ほんなごったい」と返事ができる。これが、わたしたちが目指す目標です。

ぜひ、今話した目標にたどり着けるよう、一緒に信仰の道を歩いていきましょう。わたしは、説教を通して福音書の中にある「なるほどそれなら分かる」という部分、今日の説教で言えば「あっぱよ」「ざぁまよ」を拾い出して皆さんに示しますから、それを材料にして誰かに伝えてください。

誰かが「ほんなごてや?」と聞いたなら、「ほんなごったい」と答える。そのときわたしたちは、イエスに耳を傾ける、新しい仲間を網ですくうことができるのではないでしょうか。
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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:27-30)
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