主日の福音10/04/04
復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)
真理を学ぶために、心の部屋を飛び出そう
あらためて御復活おめでとうございます。馬込教会の婦人会に荷造りを手伝ってもらって、かなり作業が進みました。片付けといった場面では、明らかに男性よりも女性のほうが適していると、思い知らされました。
たとえば、箱よりもほんの少し高さが高いとか、幅が広いとかいう場合に、男性はどうしても躊躇するのですが、女性軍ははみ出ている部分も力ずくで寄せてくっつけてガムテープで締め付けてしまうんです。
見事だなぁと思いましたが、よくよく考えたら、はみ出ているものを押し込んでしめるというのは、もしかしたら洋服を着る時なんかによくやっているのかなぁと、変な想像までしてしまいました。
それはそうと、おかげさまでみるみるうちに物が無くなりまして、何年ぶりかに床が真っ平らに見えています。テレビ台の上にも、今はテレビとリモコンしか載っていません。これはすごいことです。
片付けを手伝ってもらっている中で、ためになることを会話の中で聞かせてもらいました。箱には中身が分かるように箱の中を写した写真を名札代わりに貼り付けているのですが、「えー、そんな名札の貼り付けかたじゃダメだよ」とある人に言いましたら、別の人が、「神父さま。貼り付けているのは神父さまじゃないんだから、仕上がりも神父さまとは違うんですよ」とあっさり言われてしまいました。
考えてみると、なるほどそれもそうだよなぁと思ったのです。言われなくても実際そうなのですが、言われてみて、事実を目の前にして、初めて「なるほどそういうことか」と納得することってあるわけです。
じつは今日の福音朗読の、ペトロともう一人の弟子もまた、イエスの復活という事実を目の当たりにして初めて、「なるほどそういうことか」と納得したのでした。マグダラのマリアが、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(20・2)と告げたのですから、イエスの復活を気付くことができたはずです。それなのに、マグダラのマリアの言葉だけでは納得できず、2人とも墓へ走ったのでした。
墓へ走っても、たぶん報告を受けた以上のものは見ることができないのです。それにもかかわらず、彼らは墓へたどり着いた時に、出来事を理解しました。事実を目の前にして初めて理解できる。物事にはそういうものもあるということなのでしょう。
復活の出来事を空の墓に行ってようやく納得した2人の弟子たちを眺めていてわたしはこう考えました。わたしたちも、イエスの復活を信じることで、いつかは復活の喜びにあずかれるのだと信じています。ところで、本当にわたしたちは復活するという確信は、どこでどういう時に味わえるのでしょうか。
わたしは、もしかしたらそれは、お墓に行って、その場に立ってみた時に感じることができるのではないかと思いました。次に墓参りに行った時、「わたしたちは皆、キリストを信じてこの世を去るのだから、復活するのだ」と、墓を見て考えてみたらいかがでしょうか。今までとは違う何かを、墓そのものが教えてくれるかも知れません。
「百聞は一見にしかず」と言います。2人の弟子たちが足を運んだことで学んだ姿を、わたしたちも大切に考えましょう。内向きに考えを閉じこめず、飛び出してみましょう。復活のイエスは、ご自分がその場にいなくても、空の墓を通してでも、人に必要な真理を教えてくださるお方です。
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‥次の説教は‥‥
年間第主日
(福音書)
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