主日の福音10/04/03
復活徹夜祭(ルカ24:1-12)
思い出し、復活のキリストに従って歩みなさい

主のご復活、おめでとうございます。中田神父が、みなさんと御復活を喜び合うのは、今年が最後になりました。もう、御復活の説教をみなさんにすることはないでしょうから、何か、最後にお役に立つことを話したいと思って今年の説教を考えてみました。

朗読は、週の初めの日の明け方早く、婦人たちが墓へ行く場面から始まります。墓を確かめますが、主イエスの遺体が見あたりませんでした。そこへ、輝く衣を着た二人の人がそばに現れます。そして、途方に暮れていた婦人たちに、イエスは復活なさったのだと伝えます。

復活を知らせるのですが、二人の人は同時に、「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい」(24・6)と促します。イエスがご死去の直前に話されたこと、それは、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」(24・7)ということでした。

わたしは主の御使い二人と、婦人たちとの出会いの中で、2つ、皆さんに伝えようと思いました。それは同時に、わたしが、皆さんに言い残したい2つのことでもあります。1つは、「(イエスが)お話になったことを思い出しなさい」ということ、もう1つは、「罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」とのみことばで伝えようとしていることです。

1つ目の、「イエスがお話になったことを思い出しなさい」についてですが、「思い出しなさい」と言うからには、思い出すことができるくらい、繰り返し、確実に話してくれたことがあるはずです。イエスは、弟子たちだけでなく、婦人たちにも思い出してもらえるように、大切なことは残さず話してくださったということです。

もう1つは、「罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」とのみことばです。わたしはこのみことばは、2つに区別して考えるのがよいと思います。それは、「罪人の手に渡され、十字架につけられ」と、「三日目に復活する」とに分けて考えるということです。

「罪人の手に渡され、十字架につけられる」これは、イエスの命を奪おうとする人々のされるがままになっている状態です。もしここで、イエスに自由がなくなっていて、人々の奴隷になっていたのであれば、イエスは復活することはできなかったでしょう。事実はそうではなく、イエスは「罪人の手に渡され、十字架につけられる」あいだも、完全に自由であり、誰にも隷属していなかったのです。ですから、ご自分で「復活する」のです。

この2つを通してわたしが言いたいことはこうです。イエスは、特別な弟子たちだけでなく、婦人を含むすべての人に、話すべきことは十分話しておかれたのでした。わたしも、思い出せるくらいに、話すべきことは話したと思っています。あとは、「こんな場面では、中田神父はどんな決断をしただろうか。どんな態度を、求めていただろうか」そういうことを思い出してほしいと思います。

次に、イエスは「罪人の手に渡され、十字架につけられる」場面でさえも、自由を奪われるたり、誰かに隷属したりしていなかったのですから、わたしも、みなさんがどんな困難の中にあっても、自由を奪われない人であってほしいと思います。特に、イエスの復活を信じる教会家族は、悪に引きずり込もうとする誘惑の奴隷に決してなるべきではありません。きっぱりと、「わたしは命を狙われるような場面でも自由を失わなかったイエスを信じている。だから、あなたがたの誘惑には屈しない」そういう決意をもって、復活の主に従って歩んでほしいと思います。

「(イエスが)まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。」中田神父がまだ馬込教会にいたころ、話していたことを思い出しなさい。少なくとも、前半の3年間については、皆さんの手元にある「取って食べなさい」という文庫本に、信仰生活で気づいて欲しいことを一言一句漏らさず書いています。ぜひ、思い出すために読み返してみてください。

イエスは今日復活し、「話したことを思い出しなさい」それと「罪に隷属することなく、復活の主を信じて生きる完全な自由を保ちなさい」と呼びかけています。命ある限り、この2つを維持して歩むなら、わたしたちはいつも、復活したキリストの証し人となれます。
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‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
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