主日の福音10/04/02
聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
イエスは、この世のはかないものに磔にされた

昨日の聖木曜日の典礼で、非常に興味深い話を聞かせてもらったのですが、今日のイエスの御受難にはちょっと適当ではなさそうなので、また機会を見つけて話したいと思います。

今日、イエスさまの御受難の朗読でした。イエスは十字架にはりつけにされて、お亡くなりになります。わたしは、十字架とは、「この世のもの」を意味していると思います。しかも、はかないものということも意味しているでしょう。

イエスは、この世界をすべて合わせても足りないくらいに尊い「神の子」です。その「神の子」が、十字架にかけられて命をささげることをお望みになりました。イエスはこの世の、はかないものに結び合わされて、最期を遂げられたのです。

わたしは、ここにもう1つのことを見て取りました。実はわたしたちも、この世のもの、はかないものなのです。生まれて数十年で命が尽きていく、本当に弱く小さな命なのです。イエスがこの世のはかないものに磔にされている姿に、イエスが人類と結び合わされた姿を見て取ったのです。

今日、受難の朗読に皆で参加しました。これまでわたしたちは、イエスが、木の十字架に磔にされたと受け止めていたと思います。でも今日からは、もう1つの受け止め方を学びました。イエスが磔にされた木は、わたしたちでもあるのです。この世にあって、限られた時間しか与えられていないわたしたちに、イエスは磔にされたのです。

イエスが磔にされたことで、どうなったのでしょうか。救いのわざが完成しました。この世のもの、はかないものに磔にされて、救いのわざが完成しました。それはすなわち、弱くはかない命であるわたしたちにも当てはまるのではないでしょうか。わたしたちも、イエスに結ばれるとき、救いの恵みを受けるのです。

わたしたちは今日、十字架の崇敬を行います。十字架が偉いから、お辞儀をするのではありません。この世のもの、はかないものに、イエスが結び合わされてくださったから、感謝してお辞儀するのです。わたしたちという、この世の弱くはかない命に、イエスが結び合わせてくださって、わたしたちを救ってくださった。そのことに、感謝したいのです。

イエスが磔にされて、もう1つのことが起こりました。それは、神が、御子イエスを通して、人類をご自分のものとしてくださったということです。イエスの尊い血によって、人類は罪の状態から贖われたのですが、「贖い」とは、買い戻しをするということです。

神は、御子イエス・キリストの尊い血によって、人類を自分のものとして買い戻してくださったのです。原罪をもって生まれ、自分の力では自分を救えないわたしたちを、御子の尊い血によって、自分のものとしてくださったのです。

こうしたことを考え合わせるなら、十字架上のイエスの姿は、わたしたちから遠く離れたものではありません。十字架の木を見る時、わたしたちがイエスと結び合わされているのだと考えてみましょう。そしてイエスの尊い血によって、今まさにわたしたちは買い戻されたのですから、感謝しましょう。わたしたちのために十字架上におられるイエスを、まごころ込めて礼拝いたしましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(ルカ24:1-12)
‥‥‥†‥‥‥‥