主日の福音10/03/28
受難の主日(ルカ23:1-49)
キリストがわたしたちの中心におられる

長い福音朗読でしたが、わたしは十字架上のイエスの姿を、今年の黙想会で感じたことと重ね合わせながら朗読し、同時に朗読に聞き入っていました。イエスは、犯罪人が右と左にはりつけにされる中、真ん中に張り付けにされました。この、イエスが真ん中におられる様子を、じっと黙想してみましたので、今週の説教としたいと思います。

今年の黙想会は、本田神父さまが指導してくれたおかげで、わたしは黙想会期間中のミサに出席するだけで済みました。2人で祭壇に上がってミサを捧げたのですが、本田神父さまに敬意を表してミサの司式をお願いし、わたしは本田神父さまの隣りに立って、一緒にミサを捧げたのです。みなさんもご承知の通りです。

4日間、わたしは本田神父さまの横でミサを捧げたのですが、最初の日から、ある思いがわたしの頭を巡っていました。わたしは、これまでほとんどの場合、祭壇の中央に立って、信徒全員の中心にあって、ミサを捧げていました。それが、今回本田神父さまが祭壇の中央に立ったことで、わたしは祭壇の中央からちょっと横に移動して、ミサを捧げ、同時にミサの様子を観察することになったのです。

すぐに感じたことは、わたしは今まで祭壇の中央に立つことや、信徒の中心に立つことを、疑いもなく当然なことだと思っていたのです。けれども、いざ中心から距離を置いてミサを捧げてみると、わたしが当たり前だと思っていたことが、実はそうでもないのだな、ということが分かってきたのです。

こういうことです。祭壇の中央に立ち、信徒の中心にいるのを当然だと思うわたしの中の意識は、少し強い言い方をすると、わたしが中央にいなければ馬込教会でのミサは成り立たない、わたしが中心にいなければ、馬込教会は成り立たない。そういう意識だったと思うのです。6年間にわたり、懸命に馬込教会を引っ張ってきたつもりでしたので、「わたしでなければ」という気持ちが無意識のうちに働いていたことは十分考えられます。

ところが、実際にはわたしが祭壇の中央に立たなくても、ミサは進んでいくのです。黙想会中は、わたしがいなかったとしても、ミサは可能だったわけです。同じように、わたしが信徒の中心に立っていなくても、馬込教会は成り立つのです。そのことを、瞬間的にですが、感じ取ったのです。

「ああ、実際問題そうなんだなぁ」これが、ミサの時に感じたことを思い返した感想です。わたしは、これまで自分がミサの中心にいなければ、馬込教会の中心にいなければ、ミサも、馬込教会も成り立たないのだと本気で思っていたのかも知れません。実際はそんなことはなくて、祭壇の中央に別の司祭がいて、その別の司祭が信徒の中心に立って、わたしは、その別の司祭のそばで一緒にミサを捧げても、ミサは成り立つのです。

何を今さら、と思われるかも知れませんが、馬込教会を離れることが決まったこの時期になってようやく、「わたし」という限られた人が中心にいなければミサが成り立たないわけではなく、ましてや、わたしが馬込教会の中心にいなければ馬込教会が成り立たないのでもないということ。そのことを、黙想会のミサではっきり知ったのです。

新鮮な発見でした。どこかで、わたしが馬込教会のミサのためにどうしても必要だ、馬込教会にはわたしがどうしても必要だと思っていたのです。思い込もうとしていたのかも知れません。それが、一歩自分の立つ位置を動かしてみることで、まったく違う答えにたどり着いたのです。中心に立つべき人は、必ずしもわたしでなくても良いということです。

この答えに導かれた後に、さらに2つのことを考えました。1つは、中心に誰が立つべきかということ、もう1つは、本当に中心に立つべき人は誰か、ということです。まず、中心に誰が立つべきか、ということですが、それは、馬込教会の主任司祭に選ばれた人が、馬込教会の中心に立つということです。

当たり前のように聞こえるかも知れません。けれども、わたしは、次の任地の辞令を受けた時点でも、相変わらず馬込教会の中心に立とうとしていたわけです。中心に立つべきなのは、わたしではなくて、馬込教会の主任司祭に選ばれた人、具体的には後任に選ばれた主任司祭が、馬込教会の中心になるべき人です。中田神父という個人ではなくて、その時その時に選ばれた主任司祭が中心に立てば、それでよいのです。

実際には、これまで話したことは黙想会のミサの初日に、すぐに理解できたことでした。中心に、わたしが立っていなくても、ミサは成り立つし、馬込教会は成り立つ。事実、別の主任司祭が選ばれれば、その主任司祭に引き継ぐことで、新しい馬込教会、新しい馬込教会でのミサが始まる。そこまで、黙想会初日のミサで感じ取っていたのです。

ところが、頭でそのことを理解していても、実際に受け入れるのはそう簡単なことではありませんでした。6年間、当たり前のように味わっていた感覚でしたので、その考えを変えるのはなかなか簡単ではありません。残りの時間の中で、わたしが解決しなければならない問題です。

さてもう1つの、本当に中心に立つべき人は誰か、ということです。これはわたしの中では答えは決まっています。本当に中心に立つべきは、イエス・キリストです。あらゆる出来事の中心にあって、出来事を導いておられるイエス・キリストが、中心にいて初めて、物事の本当の意味が見えてくるからです。

ミサに、別の司祭が中心に立ち、わたしがその横に並んで立った時、中心に立っているのは目の前の司祭ではなく、イエス・キリストがそこに立っているような気がしました。このミサが、ミサとしての最高の意味と役割を持つためには、中心にイエス・キリストがいなければならない。じわじわと、その思いが高まってきたのです。

すべてのことについて、本質的には、中心にイエス・キリストが立つべきである。そのことに思いが向かった時、わたしの心は解放され、自由になりました。誰かが来て、わたしがどこかに追いやられるというのではありません。わたしは、いろんな任命を受けて、いろんな教会に派遣されていきます。けれども、わたしがどこに行こうとも、中心にイエス・キリストがおられる。その思いがわたしを満たし、心は晴れ晴れとなったのでした。

イエスの受難の場面、イエスが真ん中で、十字架に磔にされていることを思い巡らしながら考えたことでしたが、みなさんの生活を振り返るヒントになれば幸いです。みなさんも、中田神父と同じ経験をしたことがあるかも知れません。つまり、「わたしが、中心に立っていなければ、この集まりは成り立たないのだ。」そう思っていた組織や集まりがあったかも知れません。当然のことだと思っていたそのような組織や集まりも、一歩引いて考えてみたら、実はそうでないことに気づきます。

自分が中心にいなくても成り立つのだと気づいた時、悲しみや恐れ、絶望感に襲われるかも知れませんが、極端に悲しむ必要はありません。なぜなら、もっと先の大切なものにあなたが気づけば、本当に中心に立つべき人は、この世界のどんな人間でもなくて、出来事に本当の意味と価値を与える人だと分かります。それはイエス・キリストです。

自分が中心にいないことを、何も恐れる必要はありません。出来事の中心に立つ絶対的な存在など、この世界のどこにもいないのです。そうではなく、たった1人の、絶対的な存在が中心に立ってくださり、中心におられるイエスのそばに立って一緒に活動する。その姿を受け入れることができるなら、わたしたちはどこにいても、どこに送られていっても安心です。

十字架のキリスト、中心に磔にされているキリストを眺めながら、恐れるものは何もないと、むしろ平安をイエスから受け取りたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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