主日の福音10/03/21
四旬節第5主日(ヨハネ8:1-11)
どうやったら「罪に定めない」共同体になれるか

何の言い訳にもなりませんが、一昨日金曜日は純心高校2年生の黙想会指導をしてきて、「はぁ疲れた、今日は説教考えるのやめとこうかな」という誘惑に負けまして、金曜日は説教が進みませんでした。

そこで土曜日、昨日はどうかというと、朝になってから午前中に教区の本部事務局会議が入っていたことを思い出し、慌てて朝8時15分の船に乗ってカトリックセンターに向かいました。午後からは、今度は「よきおとずれ」の2度目の校正作業でして、司祭館に帰ってきたのが夜の6時半でした。

うーん、ご飯食べてから何とか書くぞと思いつつ、うたた寝をしてしまったらしくて、目が覚めたら深夜の1時になっていました。ひさしぶりに、深夜から原稿を書き始めて今朝を迎えています。

これもついでのついでなので話しますが、「よきおとずれ」の編集長としての責任は4月号まででした。どういうことかと言いますと、4月号までは発行人もわたしの名前、「ほしかげ」のコーナーもわたしが書いた内容でしたが、5月号からは発行人の名前が後任の下窄神父さまに代わり、「ほしかげ」も新しい編集長が書き始めるということです。

実はそのことをはっきりわたしは理解してませんで、ぼんやりと5月号まではわたしの責任分担なのかなと思っておりました。そのつもりで「ほしかげ」も少し余裕残しで書いたわけです。

つまり5月号できっちりあいさつしてさようならするつもりだったのですが、どうやらそれはわたしの勘違いだったらしく、ちょっと未練が残る交代劇となってしまいました。そういうことですから、4月号「よきおとずれ」の「ほしかげ」のコーナーは、最後の原稿と思って何度も読み返して欲しいですね。

さて福音の分かち合いに入りますが、イエスの前に、姦通の現場でとらえられた女性が連れて来られます。当時の宗教指導者たちが、どういう方法でこの女性の姦通の現場を取り押さえたのか知りませんが(男性をおとりに使って、罠に陥れたのでしょうか)、どうやら、宗教指導者たちは姦通の罪で引き出された女性にはあまり興味がないようです。

むしろ、イエスを裁判に訴え出ること、イエスを罠に陥れることだけが、彼ら宗教指導者の興味関心の的になっていた感じがします。女性の罪は免れませんが、イエスを訴え出るための単なる道具に使われたのですから、そういう意味では女性も迷惑をこうむったということになります。

イエスは宗教指導者たちの主張をしばらく相手にしませんでしたが、最後に態度を明らかにしました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(8・7)

イエスは宗教指導者たちの幾重にも積み重なった罪を暴きます。宗教指導者たちは、イエスを訴え出る口実を見つけるためなら、手段を選ばないという態度でした。目の前に連れ出された女性は、訴える口実を見つける手段に過ぎません。人を人とも思わない扱いをしています。

そこでイエスは、この女性の人としての権利を守ることと、宗教指導者たちの心にある隠れた罪を暴くことの、両方をなし遂げてご自分の権威を示します。「権威を示す」と言いましたが、宗教指導者たちのようにではなく、謙遜と、誰にも覆せない真実をもって、その場にいるすべての人に、神の子としてのご自分の権威を示したのでした。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」イエスの答えには、目の前に連れ出されたあわれな女性を、人として大切に扱おうとしている様子がうかがえます。同時に、イエスだけがこの場面では罪を犯したことのない人なのですから、誰にも覆せない真実を突きつけているのです。

このイエスの配慮のおかげで、その場にいる人々は去っていきます。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」(8・9)

わたしはこの場面を、次のように考えました。罪を犯した女性の前には、イエスひとりしかいないのです。それはつまり、罪を犯した女性に必要な答えは、イエスの取った答えしかない、そういうことではないでしょうか。人間が考えつくような解決法ではなくて、イエスが取られた態度、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(8・11)これだけが罪を犯した人に対して人間に許される態度なのではないでしょうか。

罪を見つけて、裁きで処理するという方法も世の中にはあるでしょう。それを否定はしませんが、イエスが取られた態度、「わたしもあなたを罪に定めない」という態度は、裁きで答えを出す方法よりもすぐれているのではないでしょうか。

イエスの望みにかなった共同体を造り上げる、イエスの望みにかなった社会を造り上げるためには、「罪ある人間が、誰かを罪に定めない」という方法をできる限り探る必要があるのではないでしょうか。

今週わたしたちに問われているのは、イエスが最後に言われた、「わたしもあなたを罪に定めない」ということだと思います。ある人をじゃまもの扱いして取り除いたり、押さえつけたりするのではなくて、だれもがもう一度立ち帰って生きていけるような共同体、立ち直れる社会をめざす。そのために梶を切ることができるよう、主に願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(ルカ23:1-49)
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