主日の福音10/03/14
四旬節第4主日(ルカ15:1-3,11-32)
御父のあふれる愛を学ぼう
説教に先立って、皆さんに報告しなければならないことがあります。わたしは2月14日付で転任の辞令を受けまして、上五島の浜串教会に転任することとなりました。4月18日までには新しい任地に着任しなければなりません。後任の神父さまと相談し、4月16日(金)に、いっせいに入れ替わることを申し合わせています。
それに伴い、引越しの準備とか、出発の日にスムーズに入れ替わるためにどうすればよいかとか、いろいろ助けてもらいたいと思っております。最後まで、ぜひご協力をお願いいたします。まだちょっと早いですが、行き先の浜串小教区の住所、連絡先を書いたメモを置いています。参考にしてください。
それから、後任の神父さまですが、わたしが名前まで言って良いものか、転任の辞令を読んだだけでは判断できません。ただ、わたしの後輩で、わたしがこちらに着任した時と同じ年齢の神父さまであると、そこまでは言っておきます。
浜串教会と言っても予備知識はないでしょう。隣の小教区はわたしの出身鯛ノ浦小教区です。鯛ノ浦の実家から、車で30分くらいだと思います。九州商船のフェリー、ジェットフォイルの着く奈良尾港からは、車で20分くらいです。
どんなつもりで故郷の隣の小教区に転任なのか計りかねますが、行きませんとは言えないので、腹を決めて残りの期間の務めを精一杯果たしたいと思います。まだ時間はいくらか残されていますが、4月以降の日程でいろいろ相談してくださった人に、「うーん、それはちょっとー」と言ってはぐらかしていたのは、喉まで出かかっていたのですが、今日まで公表できなかったためでした。申し訳ありません。
では福音の分かち合いに入りましょう。今週の福音朗読は、おそらく福音書のたとえ話の中で、いちばん親しみを持っているのではないでしょうか。弟は、財産を無駄遣いしてしまい、そのことがきっかけで父の家に帰ります。父にゆるしを願おうとすると、父親が先にゆるしを与えました。
兄は、父の寛大さをどうしても受け入れることができません。受け入れられない口実として、「友達と宴会をするために、子山羊1匹すらくれなかったではありませんか」(15・29)と言っています。ただ、宴会のために子山羊が必要であれば、兄子山羊1匹くらいは自分で用意できただろうにと思います。ですから、単なる文句を言う口実だったかもしれません。
さて、この物語に、味を付けている人物は誰だろうかとわたしは考えます。寛大な父親が、物語を面白くしてくれているのでしょうか。あるいはやっかいな弟が、物語のアクセントになっているのでしょうか。わたしはむしろ、兄の存在が、この物語の重要な鍵を握っているのではないかなと思います。
つまり、兄が、どういう態度に出るのかで、この物語の形が決まってくるのではないかと思うのです。もし、兄が「そうか。それは良かった。弟が無事に帰ってくるなんて、こんなに嬉しいことはない」と答えていたら、物語は何かを考えさせるたとえ話にはなっていなかったでしょう。
実際には、たとえ話にあるように、弟のしでかしたことがゆるせない、また父親の寛大さにも納得いかない、そういう態度だったので、何かを考えさせる物語に仕上がったのだと思います。兄が、この物語から学びを得る鍵だと、わたしは思いました。
まずは、兄と弟が、父親のことをどのように思っているか、この点から出発したいと思います。弟が、我に返って次のように言ってます。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」(15・17)弟は、父親が大勢の雇い人に、寛大に振る舞っている様子を思い出しました。父親の懐の深さ、寛大さを今さらのように尊敬します。
一方兄からは、父親の懐の深さ、寛大さにつながるような言葉は見られません。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(15・29)これは、「わたしには責められる非は全くない」という言い方ですが、父親への尊敬の念は感じられません。
兄と弟、この2人の違いは何だろうと考えたとき、わたしは、父親の愛を「あふれるほどの愛」と受け取ったか、そう取らなかったかの違いではないかと思いました。弟は、雇い人にも、おなか一杯食べさせてくれている、そんな父親にあふれるほどの愛を感じました。
兄は、弟をゆるす父親の中に、あふれるほどの愛を見ることができなかったのだと思います。父親を理解できなかった兄の愛をたとえて言えば、それは「すりきり一杯の愛」です。父親に返す愛として、不足ではありませんが、あふれてはいません。そんな愛しか父親に返せなかったので、弟を見る目も、「すりきり一杯の愛」でしか量れなかったのだと思います。
弟は、もちろん立ち返りが遅かったわけですが、兄には見えなくなっていた父親のあふれるほどの愛に気づいています。自分も、これまであふれるほどの愛で育てられたに違いない。どうしてこんなことをしてしまったのだろう。今からでも、父親が示してくれたあふれるほどの愛を見習って、生きていくことにしよう。これが、弟の立ち返ったいちばんのポイントだと思います。
父親のあふれるほどの愛を理解した弟は、自分が雇い人の1人として扱われても構わないとまで考えます。父親の深い愛を、今は理解しているからです。自分がどんな身分であっても、父親の愛を失うことはないと、理解しているからです。それはまるで、一度死にかけた人が、命を取り戻したあと、もはや恐れるものはないと感じているようなものです。自分が実の子どもという身分を失っても、愛を失わないと知っているので、恐れるものがないのです。
兄はまだ、弟のこうした心の成長を理解していません。まだ、父親のあふれる愛を理解し、自分も父親に倣おうという気持ちになれません。兄に今、答えが求められているのは、「あなたは、父親のあふれる愛を理解し、自分も父親に見習って、あふれる愛を人に示す人になってくれますか?」という問いです。
今週のわたしたちの学びも、兄への問いかけからです。「あなたは、父なる神のあふれる愛を理解し、自分も父なる神に見習って、あふれる愛を人に示す人になってくれますか?」すりきり一杯の愛で量ろうと思えば、自分たちの周りには不足とみなされる人もいるかもしれません。その人を理解しようというとき、わたしのほうがあふれる愛で量り返す必要があります。
また、すでにあふれる愛を学んで生きている人を、そんな生き方は認めたくないと拒否すべきではありません。すでに、あふれる愛に生きている人には、わたしも共に喜び合うのです。こうしてわたしたちは、父なる神に倣って生きる人になるのです。先週の説教と重ね合わせて考えると、このような生き方を選び取って初めて、わたしたちは回心を遂げるのです。
わたしたちには、いつも置かれた場所で、あふれる愛を学ぶ機会が与えられています。わたしのこれまでの6年間の生活もそうでしたし、これからもそうです。今ここで、今このときが、父なる神のあふれる愛を学ぶ場です。生活に信仰を根付かせていくために、ミサの中で恵みを願うことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ8:1-11)
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