主日の福音10/03/07
四旬節第3主日(ルカ13:1-9)
すべての人に「悔い改め」が求められている

長く信仰を保ち続けるということは、それなりの意味があるのだと思います。ある通夜の席で、「苦しみ」について思う所を素直に話したことがあります。その時、喪主を務めたご主人が、「妻は苦しい思いをして亡くなって、どうしてこんな思いをしなければならなかったのだろうかと思い悩みましたが、今日、神父さまの説教を聞いて、苦しみの意味が分かりました」と、参列者に話したのです。

まだ30歳にもならないわたしが、苦しみの意味を説き明かしたりできるはずがありません。むしろ、わたしが通夜で話したことを通して、神さまが奥さんを亡くされたご主人に、苦しみの意味を教えてくださったのだと思います。それは、長く奥さんと信仰を共にして連れ添ったことへの報いだったのかも知れません。

今週の福音朗読で、わたしにも長い時間かかっての発見がありました。3月12日にはわたしも44歳になりますが、ここまで信仰を保ってきて、与えられた朗読箇所の中に、ようやく見えてきたことがあります。それは「悔い改める」という言葉の意味です。

今週の福音朗読は前半と後半とに大きく分かれます。前半で、ピラトに殺害されたガリラヤ人たちが、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったと言えるだろうかとイエスは問いかけます。同じように、シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと言えるだろうかと問うています。

イエスの問いかけは、意味を考える必要があります。イエスはただ問いかけているのではありません。あなたたちは、「自分たちは殺害されたり事故の巻き添えになったりする運命にあるような人間ではない」、もっと言うと、「悔い改めの必要な人間ではない」と、思い違いをしているのではないか、とイエスは人々に言いたいのです。

イエスは、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(13・3,13・5)と告げて、悔い改めの必要のない人間などどこにもいないと言い切ります。すべての人に、悔い改めの必要があるのです。

すべての人が悔い改める必要があることを、前半部分で考えさせました。悔い改めの必要が理解できたところで、「では悔い改めとはどういう態度を指すのか」を後半の部分で教えようとします。

「罪がある人が、罪を認めて立ち帰る」この姿勢を、イエスは「悔い改め」として示しているのでしょうか。後半の朗読をもう一度読み直してみましょう。いちじくの木が、実を付けないことを、ぶどう園の主人は不満に思っています。どうして実を付けないのに、切り倒さないのか。ぶどう園の主人が言っていることももっともです。

ぶどう園の主人の要求は、はっきりしています。自分は、どんな果樹からも、実りを求めるということです。ある果樹にだけ、実を付けることを要求しているのではなくて、すべての果樹に、結果を求めるのです。

同じことを「悔い改め」に当てはめてみましょう。悔い改めは、ある限られた人に要求されているのでしょうか。今週のたとえからすると、すべての人に「悔い改め」は要求されています。そうであれば、「悔い改め」とは、罪を自覚している人だけのものではないということです。イエスが教えようとする「悔い改め」は、すべての人に要求されている態度なのです。

すると、わたしたちが考えがちな、「罪があるから、悔い改める」という理解では、イエスの問いかけの答えにはなっていないことになります。イエスの言う「悔い改め」とは、どんな態度を指すのでしょうか。

ここで、去年の黙想会のことを思い出してみましょう。聖パウロの回心というのが黙想会のテーマでした。聖パウロは、罪深い生活から回心したのではありませんでした。誰よりも、律法に忠実な生き方をしている中で、生き方を改めるように呼び掛けられたのです。抜きん出て、正しいことを実践していた最中に、です。

イエスが求める「悔い改め」も、このパウロの体験をもとに考えるべきです。人間的に見て、正しい生き方をしている人はたくさんいるでしょう。自慢まではしなくても、自分の生き方に満足できている人はたくさんいると思います。

それでも、イエスはすべての人に「悔い改め」を求めるのです。それはすなわち、「神に照らしを求めて生きる」この生き方に変わっていくことです。イエスの言う「悔い改め」とは、「正しく生きる」こと以上に、「神により頼んで生きる」そういう人に根本から変わることを指しているのです。

ここまで考えると、人間はすべて、「悔い改め」が求められていることが分かります。わたしたちは、この社会を生きていく中で、「自分で努力して自分を守る」「自分のことは自分でする」そんな生き方に完全に支配されて生きています。また自分の努力が、道を切り開いてきたことも確かです。

それでも、イエスはわたしたちに、「神に照らしを願いながら生きる人に変わりなさい」と求めるのです。どんなにうまくいっている人にも、中心に神の照らし、導きを置く人に変わることを求めているのです。

このような「悔い改め」が、今週わたしたちに求められています。「まだまだ、神さまに助けてもらう必要は感じない」。教会との関わりを面倒だと思う人は、態度で、「わたしは悔い改めません」と言っているようなものです。

態度を改めない人には何が待っているのでしょうか。「もしそれでもだめなら、切り倒してください。」(13・9)これが「悔い改めの実を結ばない人」の末路です。とてつもなく寛大な主人と園丁ですが、それでも、最後の最後「切り倒そう」と決断する権限を持っているのです。

わたしたちの学びを得ましょう。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。これは罪人からの立ち帰りだけを言っているのではありません。わたしが、神への信頼を中心に据えて生きるように生まれ変わること。これがイエスの求める「悔い改め」です。

イエスの求める「悔い改め」が見えてくれば、出会う人との接し方も変わってくるのではないでしょうか。自分を中心に据えて生きている人が、いかに多いことでしょう。親しい友人にも、「自分がいちばん大事」と信じて疑わない人ばかりです。そんな、たくさんの友人に、「神が、生きる中心になるべきです」と、あなたは語り掛けなければなりません。その心の準備はできているでしょうか。

すべての人に、「悔い改め」が必要です。神を中心に据えて生きる「生き方の大転換」が必要です。この「悔い改め」の必要性に目覚め、自信を持って同じ生き方を証しできる人に生まれ変われるように、ミサの中で恵みを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ルカ15:1-3,11-32)
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