主日の福音10/02/28
四旬節第2主日(ルカ9:28b-36)
人間の働きの中に神の隠れた計画を見る

最近のケータイは、とんでもなく進化しています。ケータイに、テレビの機能が付いているのですから、時代も変わったなぁと思います。ケータイと言えば、この前ケータイを買い直したというお父さんに会いました。海でケータイを落としたそうです。そのお父さんに、「海ならまだましだよ」と言って、わたしの恥ずかしい話を打ち明けました。

以前わたしは、トイレの中にケータイを落としたことがあるのです。よっこらしょと座った時にですね、長袖シャツの胸ポケットから、スルッとケータイが滑り落ちたんです。あっと思って手を出したのですが、残念ながら中にポチャンと落ちてしまいました。お店に交換に行った時に、どこで落としたのですかと聞かれて、洗面台で落としましたと嘘を言いました。言えませんよね。

さてケータイの話の終わりに、皆さんの中にはメールを使っておられる人もいらっしゃることでしょう。もし、メールを使っておられて、5000文字まで受け取ることができるのでしたら、ぜひ中田神父の説教を毎週受け取って、文字を読みながらじっくり説教を味わっていただきたいと思います。

後ろに、メモ用紙を置いていますので、読んでみたいなぁと思う人は、ぜひケータイのアドレスを書き込んで中田神父に預けてください。メモを渡してもらえれば、来週の分から、さっそくケータイに中田神父の説教をお届けします。

皆さんの励みになるかどうか分かりませんが、あの賄いさんも、ケータイで中田神父の説教を受け取って先週から読み始めているんですよ。あの賄いさんも、といったのはいろんな意味があるのですが、ここでは割愛しましょう。

では福音の分かち合いに入りましょう。ペトロ、ヨハネ、およびヤコブが、イエスの変容の出来事に立ち会うことになりました。「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(9・29)とあります。目に見える形で、弟子たちはイエスの栄光に触れたのです。
実は、今日の出来事、イエスの姿が変わる出来事は、ある重い出来事にはさまれた形で置かれています。今日の朗読箇所の前後は、イエスが弟子たちに、ご自分の死と復活を予告する場面になっています。

イエスがご自分の死と復活について語る時、弟子たちが「イエスの死」について恐れを感じ、悲しみに沈むということは十分に考えられることです。それは、弟子たちが「イエスの復活」について理解し、喜びに満ちあふれることを想像するよりも易しいことです。

つまり、3人の弟子たちは悲しみを引きずったまま、イエスとともに山に登り、光り輝く姿を目撃した可能性が高いわけです。もしそうだとしたら、弟子たちがイエスの栄光ある姿にしがみつこうとするのも無理はありません。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(9・33)

ペトロは、モーセとエリヤ、それにイエスをとどめておくことで、イエスが苦しみを受けて死ななければならないという悲しみから逃れることができると思ったのかも知れません。また、人々にもイエスは本来はこんなに栄光に輝くお方で、わたしたちがこの方を信じたことも間違っていないのだと知らせるまたとない機会だと思ったのでしょう。

ペトロには、この考えはとても良い考えに思えたかも知れません。けれども、父なる神は、御子イエスを通して、別の答えを示します。「ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた。」(9・34-35)

この声は、何を意味しているのでしょうか。いろんなことが考えられるでしょうが、わたしは、「これに聞け」という呼び掛けが、ここでは強調されているのだと思います。

「聞け」「聞きなさい」。わたしたちが、人からこう言われた時、どんなことを考えるでしょうか。「人の話を聞け」「よく聞け」。おそらく、「聞け」と言っている中に、「聞いて理解し、従いなさい」ということが含まれているのではないでしょうか。

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声がしたのですから、父なる神は、弟子たちが御子イエスに聞き従うことを求めているということになります。ペトロは、どちらかというと、自分の考えをイエスに受け入れてもらおうとしています。ペトロが、イエスに「聞け」と言っているのです。

これは取るべき態度と正反対です。弟子たちが、イエスに聞き従う必要があるのです。イエスが弟子を前にしてご自分に従うように求めた場面は2つの場面に限られます。復活後に、ペトロに「わたしに従いなさい」と言った場面と、死と復活を予告する時の「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言った場面です。

ということは、弟子たちがイエスに聞き従う道は、「十字架を背負って、イエスに従う」この道しかないのです。イエスが予告された死と復活は、避けて通ることができない。たとえ栄光に輝く姿を目の当たりにしたとしても、弟子たちは最後まで、イエスに聞き従う必要があるのです。

わたしたちも学びを得ましょう。父なる神は、御子イエスを示しながら、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と呼び掛けました。この呼び掛けは弟子たちに限らず、わたしたちにも向けられています。

「どこからどう考えても、これが筋道として正しいのではないか」「客観的に見て、わたしが要求されている選択肢は間違いで、わたしの意見のほうが正しいのではないか」わたしたちが、相手に対して「聞け」と言いたくなる場面はいくらでもあります。けれども、首をかしげたくなることの中に、実は見えない神の計画が秘められているのです。

神の見えない計画、崇高で奥深い計画が、だれが見ても納得できる人間の働きの中に示されるなら、誰でも喜んで聞き従うでしょう。聞き従わない人は誰もいません。そうでないことがあまりにも多いのが世の中です。

神の見えない計画は、たいていの場合隠れているのです。それも、なぜこんなことを求めるのだろうかという人間の活動の中に隠れています。ここに、わたしたちが「十字架を背負って、イエスに従う」理由があるわけです。

十字架を背負わないでイエスに従う道はどこにもありません。イエスが示した道の中で、聞き従う信仰生活を完成させる。そのための恵みを、ミサの中で願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
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