主日の福音10/02/14
年間第6主日(ルカ6:17,20-26)
この世の価値ではかれない真実がある

今週の福音朗読箇所は、皆さんもよく耳にして覚えている「幸いと不幸」についての教えです。マタイ福音書も幸いについての8つの教えを、イエスが山で語ったと記録しています。今年は、ルカ福音書を中心に日曜日は回っていきますので、ルカ福音書に沿って、考えてみましょう。

まず、根本的なことですが、イエスが語る幸いは、神の国で通用する幸いのことを言います。「人にばれなければ何をしてもいい」とか、「人に迷惑が掛からなければ何をしても自由だ」とか、この世の価値に基づいた幸いは前置きされていません。この点は間違いの無いようにしたいと思います。

その上で、与えられた福音朗読に目を向けてみましょう。イエスは神の国でも通用する幸いとして、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(6・20)またこれに続くことを語りました。このイエスの語る幸いは、もしかしたらこの世では通用しないかも知れないけれども、神の国では通用する。そんな理解の仕方で向き合ってみる必要があります。

「貧しい人々は、幸いである。」これはこの世の価値ではかると、まったく通用しない考え方だと思います。「人が羨むような生き方」という意味では、「貧しい人々の生活」にはまったく魅力がありません。けれども、この生き方が、神の国では魅力的な生き方につながっていく。この点をわたしたちが知った時、イエスの言う「貧しい人々は、幸いである。」この言葉の意味が分かるのです。

「貧しさ」から解放されるには、2通りの考え方があると思います。仕事を見つけ、給料をもらって、住む場所を用意し、食べたい物を食べ、したいことをする。これも、貧しさから解放される1つの方法でしょう。

ところが、この方法には欠点があります。仕事を失った途端に、貧しさから抜け出せなくなってしまうのです。給料をもらうことも、住む場所を見つけることも、食べたい物を食べ、したいことをするのも、かなわなくなります。いつ今の生活を奪われるか分からないという不安がいつもつきまといます。

貧しさから解放されるもう1つの道があります。仕事を失い、給料を失っても、わたしのよりどころは神である。その信念を決して失わないという道です。収入があるか無いかで、よりどころが変わるのは、神以外の何かを最後のよりどころにしているからです。

収入があってもなくても、神が自分のよりどころである。人間的なものをはぎ取られてしまった時にこそ、神をよりどころにしている人は幸いです。ここに、イエスが言う「貧しい人々は、幸いである。」この本来の意味があるわけです。

同じことは、他の呼び掛けにも当てはまります。「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。」(6・21)もし、食べ物が最後のよりどころだったとしたら、飢えに苦しむ人々は決して幸いにはなれません。それなのに、イエスは「幸いである」と言っています。

飢えに苦しむ時も、最後のよりどころは神であるという変わらない信念が、その人を幸せにするのです。食べ物の飢えだけではありません。ある人は親の愛情を受けられずに育ち、両親への愛に飢えています。愛に飢えている子供が、両親の愛を最後まで受けられなかったらどうなるのでしょうか。両親の愛に変わるものを、必死に求めるのではないでしょうか。

神の愛ではなく、この世の何かで代わりに満たそうとするなら、ある人は満たされずに生涯苦しむかも知れません。神の愛だけが、変わらない愛の泉です。ある人々は、神の愛に気づき、満たされます。

結局、この世の価値ではかると、とても幸せにたどり着けそうにない人々のことが、イエスによって幸いであると言われています。ではなぜ幸いなのか、ほかに考えられることは、イエスが取り上げた人々は、人間による解決に頼らずに、神による解放と救いを信じて待った人々だということでしょう。

神による解放と救いを待つことのできる人々、その人々こそが「幸い」なのです。貧しくならなければ幸いになれないとか、飢えに苦しまなければ幸いになれないと言っているわけではありません。

「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」(6・21)重い病を得て、泣いている人々がいるかも知れません。この世の価値ではかれば、とても幸せな人々とは呼べないでしょう。けれども、病を得たことで初めて、神による解放と救いを信じて待つことも考えられます。

この世に解決を求めずに、神に解放と救いを求めることを知ったとしたら、その人は笑うことができるのではないでしょうか。決して笑うような状況にない人が、神に解放を願った時、笑うことができるようになります。

最後に、今日の福音朗読からわたしたちも糧を探しましょう。イエスは、この世の価値ではかるなら、とても幸せになれそうにない人々を、幸いだと呼びました。この世の価値ではかれない人々は、神の国の価値で解放と救いを求めるまたとないチャンスが近くまで来ているのです。それはわたしかも知れません。

あなたの生活は、すべてがこの世の価値ではかりつくされた生活でしょうか。生活の中に、この世の価値ではかれない部分を抱えている人、その人はきっと、イエスの招きを自分のものとしていくチャンスが近づいています。

この世の価値を絶対と思わず、イエスが示す価値に目を開くことができるよう、ミサの中で照らしを願い求めましょう。
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四旬節第1主日
(ルカ4:1-13)
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