主日の福音10/01/31
年間第4主日(ルカ4:21-30)
イエスの語り掛けをもう少し考えてみる

今週は、朗読箇所の「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(4・24)という箇所から学びを得て、生活に活かす糧を持ち帰ることにしましょう。郷里の人々は、イエスにこんな言葉を投げかけました。「この人はヨセフの子ではないか。」(4・22)

郷里の人々は、イエスのことを十分理解しているつもりでした。父親が誰で、母親が誰であるか、もしかしたら親類の人がだれであるかについてまで、詳しく知っていたわけです。イエスが何かを語るなら、イエスを取り巻く環境に影響された言葉を語るだろう。そんな予測を立てています。

ところが、イエスは予想もしない言葉を口にしたのです。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」予想の範囲を超えた言葉を口にしたので、郷里の人々は驚き怪しみ、理解できないだけでなくついには憤慨し始めます。もはや、郷里の人々の心は一歩も前に進むことはありません。冷静さを失ってしまい、考えることができないからです。

たしかにイエスの放った言葉は、郷里の人々には痛みを感じるほど強い言葉でした。ここで大切なことは、イエスがむやみにそんなきつい言葉を放つだろうかと、もう少しよく考える姿勢です。向けられた言葉を、もう少しよく考えてみる。そんなとらえ方が、必要でした。

イエスがきつい言葉を言うからには、それなりの理由があるはずです。優しく語り掛けることも知っている方が、あえて厳しい態度で臨むのですから、それは理由があってのことです。理由があるのだなと考えたなら、さらにもう少しその理由に迫ろうとしたことでしょう。ところが郷里の人々は、イエスの言葉を聞いた時、「何をー!」という反応を取ってしまったのです。

もう少しよく考えてみるというたとえになるかどうか、自信はありませんが、ついこの前NHKのプロフェッショナルという番組で小野次郎さんという寿司職人が取り上げられていました。この人の並々ならぬ努力を、ちょっと話してみたいと思います。

銀座の一等地に店を構え、今や押しも押されもしない名人芸でお客さんを唸らせる寿司職人ですが、彼はもともと不器用な人だったらしく、人の何倍も寿司を握る努力をして、ようやく自分の境地を切り開いたのだそうです。不器用だったので、どうやったら人並みになれるのかを必死に考えて、彼独特の寿司の握り方「次郎握り」というものを編み出したと紹介していました。

もし彼が、修業時代に「君は才能がないから伸びないよ」と言われて「何をー!」と怒っていたら、もうそれ以上前に進むことはなかったでしょう。業界紙から三つ星の店と認められるような未来もなかったかも知れません。

この寿司職人が並の人物でなかったことは、修業時代に取った態度で分かります。彼は自分の不器用さに「何をー!」と怒るのではなく、「何か、人並みになる方法があるはずだ」と、諦めなかったのです。

どんなに努力しても、親方が教えてくれる伝統的な握り方を習得できませんでした。それでも、「何か方法があるに違いない」と、必死に道を捜したのです。彼は「次郎握り」を考案し、親方が教えてくれた握り方ではありませんが、自分が納得できる寿司が出せるようになりました。

小野次郎さんは、現在82歳ですが、今も、「もっと上達する方法があるに違いない」と考え続けているそうです。この姿勢がなければ、今の年齢まで一流であり続けることはできなかったでしょう。番組を見ていて、すごいなぁと感心しました。

小野次郎さんを例に出したのは、もう少しよく考えれば、きっと道は開けるはずだということを知ってもらうためでした。イエスの郷里の人々も、イエスの言葉をもっとよく考えたら、道は開けたのだと思います。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」こう言われた時に、自分たちには何が足りないのだろうかと、真剣に考えたなら、違った道に導かれたのではないでしょうか。

そこで、わたしたちも当時のことを参考に自分の生活を見つめましょう。わたしたちが出会うさまざまな場面は、必ずしも人当たりの優しいものばかりではありません。どうしてこんな目に遭わなければならないのだろうかと感じることも多々あると思います。

わたしたちの予想もしない仕打ちを受ける時、「何をー!」と思ったら一歩も前に進みません。「これは何かあるに違いない」「もう少しよく考えれば、意味が分かるかも知れない」そう考える心の準備が必要です。やみくもに、困難や試練が置かれているはずはない。あの人が、何も考えなしにあんなことを言うはずがない。きっと、何かを教えてくれているはずだ。そんな受け止め方をしつこく繰り返していけば、道は開けるのではないでしょうか。

「きっと何かあるに違いない。」同じ聖書の箇所を何度も与えられて説教をする司祭は、この気持ちがなければ一歩も前に進むことはできません。もっと違う何かを教えてくれているに違いない。何か、新しい気づきを見つけて、信徒に分かち合いたい。その一心で、司祭は聖書の与えられた朗読箇所に向き合っています。

お一人お一人にも、何か行き詰まっていることがあるかも知れません。投げ出したくなるような十字架を抱えているかも知れません。それでも、イエスがむやみに今の困難を目の前に置いているとは思えないのです。何か、イエスのわたしへの思いを知らせようとして、今があるのではないでしょうか。

「もう少し考えてみよう」「何か、考えさせているに違いない」そんな姿勢を保って、イエスに従って歩みましょう。「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(4・30)とあります。立ち止まることなく、先へ進もうとされるイエスを見て、わたしたちも今日の一歩を進めることにしましょう。
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(ルカ5:1-11)
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