主日の福音10/01/24
年間第3主日(ルカ1:1-4;4:14-21)
“霊”の力に満ちて語り、行動する

今週与えられた福音朗読箇所は、ルカ福音書の2つの部分が組み合わされています。よく読むと分かるのですが、前半は、著者であるルカが、テオフィロという人物に向かって献呈のあいさつを述べている部分です。

後半は、イエスがガリラヤで伝道を始め、ついでナザレに移動される様子が描かれています。イエスの活動の始まりの部分に、献呈の言葉がどうして組み合わされているのか。この部分については、また3年後に考えを巡らせることができればいいなぁと思います。

その部分は横に置きまして、ガリラヤで始まったイエスの活動のくだりに注目したいと思います。この部分、もう少し前後を広く見渡すと、「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」(4・14)とあるのですが、「どこから」帰ってきたのか、これだけでは分かりません。

せっかくなら、この点も朗読に含めてくれればいいのに、と思ったのです。イエスが「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」とありますが、その直前で、イエスは荒れ野での40日間の誘惑をことごとく退けてからガリラヤに帰られたのです。

イエスが“霊”の力に満ちておられるのは、この40日間の誘惑に打ち勝ったことを踏まえて考えるべきだと思います。イエスは耐えがたい試練に、完全に打ち勝ちました。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」ときっぱり言い切る力にみなぎっています。力を蓄えたその姿が、ガリラヤに帰られたイエスにはあるわけです。

その、“霊”の力に満ちたイエスが、お育ちになったナザレにやって来ます。イエスはここでも、“霊”の力に満ち、その言葉には迷いがありません。のちに弟子たちに語る言葉ですが、「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(12・12)そんな思いで「安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちに」(4・16)なります。

イエスは“霊”の力に満ちています。荒れ野での誘惑を打ち破って、心に曇りのない状態にあります。そんな中で預言者イザヤの巻物が渡され、目に留まった箇所を朗読しました。会堂で聖書を朗読する人は、その与えられた朗読箇所について何かを語ることが期待されています。そこでイエスは、迷うことなく、心にある思いを打ち明けるのです。「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(12・12)

そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と話し始めました。思ったことを、思った通りに話しました。ここで朗読に選ばれていない部分があります。イエスが「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と話し始められた時、会堂にいる人々がどんな反応を示したかが紹介されていないのです。

実際には、「この人はヨセフの子ではないか。」(4・22)という反応でした。つまり、イエスに拒絶反応を示したのです。「なんだこいつは。自分を何様だと思っているのか」という反応を示したのです。

ここで、1人の人の言葉を思い出します。幼子イエスの両親がイエスを神殿に献げに来た時に現れたシメオンです。彼は“霊”に導かれてマリアにこう言いました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(2・34-35)

こういうことです。人が、“霊”の力に満たされ、“霊”に導かれて語る時、そこには大きな摩擦が生じるということです。イエスがきっぱりと「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と話し始められた時、「この人はヨセフの子ではないか。」(4・22)という反応が返ってきました。非常に厳しい摩擦を生じました。それでも、イエスは語ることをためらわなかったのです。

ここでわたしたちの生活の糧を考えたいと思います。ある時わたしたちは、すべての人の目が注がれている中で、何かを語らなければならない時がやってきます。その時、「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(12・12)と信頼してよいのですが、言うべきことをためらってはいけないと思います。

ある場合には、「これを言ったら摩擦が生じるなぁ」と予見できることもあります。あるいは、「わたしがこういう場に立ってこんなことを言うのは、まったくふさわしくないなぁ」と感じることがあります。けれども、人が、“霊”の力に満たされ、“霊”に導かれて語る時は、口を閉ざしてはいけないのです。

例を挙げましょう。わたしたちは今、礼拝の場に集っています。この場所で当てはまる例として、聖書朗読と、共同祈願が考えられます。聖書朗読は、上手な人が読めばいいと、敬遠している人が多いのではないでしょうか。そうではなくて、聖書朗読は、人が、“霊”の力に満たされ、“霊”に導かれて語る時、それも、またとない時だと思うのです。

聖書を読む時、わたしたちは人間の力だけで読んでいるのではないのです。むしろ、“霊”に導かれて読んでいるのです。ですから、自分の能力に問いかけて、語るのをやめてはいけないと思います。

共同祈願もそうです。共同祈願は聖書朗読に比べるとずいぶん短い役割です。「聖書朗読はできないけれども、共同祈願だったらできる」と言う人がいるかも知れません。わたしは、聖書朗読も、共同祈願も、人が、“霊”の力に満たされ、“霊”に導かれて語るのであって、どちらも自分の能力で語っているのではないと思っています。

これまでの自分の心がけを振り返ってみましょう。わたしは、能力を信じて聖書朗読や共同祈願の務めを引き受けていたかも知れません。わたしの声の力で、わたしの読み聞かせる力で、聖書朗読や共同祈願をしないことです。これからは、“霊”の力に満たされ、“霊”に導かれて語るのだと考えましょう。

人が、“霊”の力に満たされ、“霊”に導かれて語る時、摩擦があるかも知れません。人の反感を買ったり、妬みを買ったりすることがあるかも知れません。それでも恐れないようにしましょう。あなたは“霊”の力に満たされ、“霊”に導かれて語りました。結果は、主にお任せしましょう。恐れずに、信頼して務めを果たす時、神のことばはより多くの人に届けられ、響き渡ることになります。
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(ルカ4:21-30)
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