主日の福音10/01/17
年間第2主日(ヨハネ2:1-11)
イエスは最初のしるしで喜びを届ける

今週の福音朗読に選ばれた「カナでの婚礼」の物語は、朗読の最後にあるように、イエスにとっての「最初のしるし」となるものでした。イエスが公の面前で、最初におこなった奇跡です。わたしはこの、「最初におこなった」という点に注目して、今週の糧を探ってみたいと思います。

イエスにとって、最初に取りかかった事柄というものをいくつか指摘できます。まず、公の宣教活動に入るに当たって、第一声というものがあります。最近は長崎では県知事選も話題になっていますし、それぞれの候補が第一声をメディアに向かって発表しています。

そのように、イエスにとっても最初に何を仰るのかは注目してよいわけです。ちなみに、イエスの第一声と思われる言葉は、マルコ福音書によれば、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)というものです。心を神に向け直すことが、第一声の中で求められていると言ってよいでしょう。

では最初の活動はどんなものだったでしょう。それは、「弟子を選ぶ」ということでした。もちろんイエスは、荒れ野での四十日の試練を経ていますが(マタイ4・1-11)、それは最初の活動というよりも、活動に入る前の準備です。

ですから、最初の活動と言えるのは、やはり弟子をお選びになることでした。その意味では、どんな奇跡よりも、信頼できる弟子を選び、育てることが、イエスにとっては何より大切だったのだなぁと考えることができます。

もしかしたらそれは、わたしたちの教会活動にも通じるのかも知れません。つまり、華々しいわざを展開するよりも前に、教会に寛大に奉仕してくれる弟子を育てることが、何よりも大事なのかも知れません。

さて本題に入りますが、イエスの最初のしるしは、今日の出来事にある「カナでの婚礼で水をぶどう酒に変える奇跡」でした。この奇跡が、婚礼に招かれた人びとに伝えようとしていることが2つあると思います。1つは、ご自分が神であるということ、もう1つは、イエスが最初に取り組んだ奇跡は、「喜びを届ける」という奇跡だったということです。

それぞれについて押さえていきましょう。イエスは、水をぶどう酒に変えてくださいました。水は、どんなに手を加えてもぶどう酒になり得ません。ぶどう酒がなくなって、どうしても調達できなくなった場面で、ぶどう酒を与えることができるのは神だけなのです。この出来事を通して、神がここにおられること、神がともにいてくださる(インマヌエル)ことを、お示しになったのです。

もう1つの点は、イエスはこの「最初のしるし」を通して、「喜びを届ける方」であることを示します。イエスが水をぶどう酒に変えたことで、集まっていた人々の顔は喜びで満たされます。婚礼の世話役の言葉が、そのことを如実に物語っています。

(世話役は花婿を呼んで、言った)「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(ヨハネ2・10)

もしかしたら、イエスの奇跡のことを、婚礼の客は気付いてなかったかも知れません。奇跡に気付かなかったとすれば、イエスが神であることに気付くチャンスも失ったのかも知れません。もし、奇跡を目撃しなかったとしても、奇跡の結果は残りました。すなわち、ぶどう酒は婚礼の客すべてが味わい、楽しんだのです。イエスが神であることには気付かなかったかも知れませんが、人々は喜びに満たされたのです。

この出来事から、今週の糧をわたしたち燃えることにしましょう。今年は、できるだけ同じことを繰り返して、説教を進めています。与えられた福音朗読から、もっとも心に響いたみことばをじっくり味わい、そのみことばがわたしたちに何を呼び掛けていて、それにどのように答えるのかを考える。この訓練を1年続けます。

今週の福音朗読にこの手順を当てはめてみましょう。中田神父は、水をぶどう酒に変えるイエスの奇跡が「最初のしるし」であることに目を留めました。そこからイエスが呼び掛けていることは、(1)ご自分がだれであるかを示すこと、(2)この奇跡は「喜びを届ける」ものであったということでした。

ここからわたしたちも考えましょう。わたしたちも、生活の中で2つの点を世に対して示すのです。その2つとは、(1)自分が何者であるか、そして(2)喜びを届けることが、わたしたちの「最初のしるし」なのだということです。

もう少し、説明が必要かも知れません。(1)の、自分が何者であるかということですが、わたしたちはイエスによって神の家族に加えられたものです。まずはこのことを証しします。家族ですから、家族のことを隠すべきではないのです。イエスによって救われた者として、顔を上げる必要があります。

そして、何よりも生活の中で「喜びを届ける者」となることが必要です。圧力を与えるのではありません。人を悲しませる者であってもいけません。何よりもまず、「喜びを届ける者」であるべきです。こうしてわたしたちは、イエスが婚礼の席で示した証しを受け継いで、現代にあって証しし続けます。

かつて、イエスがご自分が誰であるかを示し、何よりも喜びを届ける方であったように、わたしたちも同じ姿をたどることで、イエスの働きを今の世に示すのです。イエスは今も生きている。イエスは今も、わたしたちを通して世に働きかけている。そのことを、わたしたちの生きざまで示しましょう。

肉体労働をしている人も、机に向かって事務の仕事をしている人も、誰でもイエスのわざを今に引き継ぐことができます。イエスの存在を人々に感じさせる。その思いで、今週一週間を過ごすことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(ルカ1:1-4;4:14-21)
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