主日の福音09/12/27(No.452)
聖家族(ルカ2:41-52)
イエスがいてくださる家族を目指そう

今年最後の日曜日になりました。教会の典礼としては、すでに暦は新しくなっているわけですが、わたしたちの感覚はやはり年末という感覚があります。福音朗読箇所から、聖家族のお手本をわたしたちも写し取ることにしましょう。

考えるきっかけとして、ヨセフとマリアが「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(2・48)と声をかけた時の、少年イエスの答えを取り上げたいと思います。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(2・49)

イエスの答えは、2通りの受け止め方が考えられます。「本当に、わからないのですか」と、両親を問い詰めている可能性と、「ご存じのはずです」と、確認を求めている場合です。ここでは、少年イエスに両親を問い詰めるつもりは全くないでしょうから、あえて言葉を補うと「どうしてお捜しになったのですか。(あなたがたもご存じのように)わたしが自分の父の家にいるのは当たり前でしょう」という意味に取るべきです。

「あなたがたもご存じです」「わたしは自分の父の家にいる」ヨセフとマリアは少年イエスの答えに面食らったことでしょう。ヨセフがどのような受け止め方をしたのかは分かりませんが、マリアはいつか分かる日が来るまでずっと思い巡らしたようです。「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」(2・51)

わたしも、少年イエスの神殿での出来事を機会あるたびに思い巡らしています。少年イエスが、神殿に留まっておられる。少年イエスは、そのことを「当たり前だということを、知らなかったのか」と返している。どういう事なのだろうかとずっと考えています。

そうして、わたしの中で1つの考えがまとまりました。ヨセフとマリアは、少年イエスを捜し回っています。きっと、他のことはすべて横に置いて、捜し回ったのでしょう。なぜなら、少年イエスは、ヨセフとマリアにとって何よりも大切な宝だからです。家族として、何よりも大切なものを見失って、見つけ出そうと必死に捜して、ついに神殿で少年イエスを見つけました。

現代人にとって、また現代の家族にあって、イエスはどんな存在でしょうか。ヨセフとマリアのように、何よりも大切な宝でしょうか。他のことはすべて横に置いて、捜すべき相手と考えているでしょうか。もし、そう考えているとしたら、あらゆる場面に、あらゆる出来事に、まずイエスを捜し求めるはずです。

今年1年の生活を振り返ってみました。生活の中で、イエスを何よりもまず捜し求める生活だっただろうか。その時々で、果たしている務めはいろいろですが、その務めの中で、人に気に入られたいとか、人から感謝されたいとか、誰かを納得させたいとか、自己中心的な目的を第一に捜し求めていたのではないだろうか。そんなことを考えました。

そこへ、イエスは答えを示すのです。「なぜそれほど大切でもないものを捜し求めているのか。(ご存じのように)捜し求めるものはわたしである。」何よりも大切なものを捜して毎日を過ごしているつもりですが、実際にはずいぶん遠回りをしていたかも知れません。求められているものを日々こなしていますが、その中心は、イエス・キリストでないときがたくさんあった。反省することばかりです。

お一人お一人、生活に重ねて考えてみましょう。ヨセフとマリアのように、何よりも大切なものを捜し求めて毎日を暮らしています。必死になって捜していますが、見つからずに、あきらめかけて教会に行ってみると、そこにいちばん大切なものを見つけるわけです。イエスは皆さんにこう言っています。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

教会に行ってみると、いちばん大切なものが分かるようになります。いちばん大切なもの。それは、目の前のものではなく、イエス・キリストがそばにいることです。しばしば、1週間働いて、大切なものを手に掴もうとしているけれども、掴んだものはどれも消えて無くなる物、本当に大切なものではなかったりします。

家族皆が、いちばん大切なものを身近で捜そうとしているのですが、見つかりません。そして教会に来てみて、あー、いちばん大切なものは、イエス・キリストだったのではないかと気づきます。

実はわたしたちは、どこへ行っても、どこにいても、イエスがそばにいてくれたのではないでしょうか。わたしたちを、何よりも大切に思っているイエスがそばにいるのに、ある時は忙しさで気付かなくなってしまい、仕事が中心だ、給料が中心だ、家族が中心だと思っています。

けれども、仕事の中にも、家族の中にも、イエスはそばにいたのではないでしょうか。忙しさのために、気付かなくなっていたのではないでしょうか。忙しい中でも、捜し求め、ついにイエスにたどり着くのはここ教会です。

個人で、また家族で、現代の神殿である教会に来て、ようやく気がつくのです。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前でしょう。」捜しても捜しても見つからないと思っていたのに、いつもそばにいたのです。いつもそばにいる。このことに気付くまで、長い長い回り道をしているのかも知れません。

生活のいちばん深い所で流れているイエスの照らし、導き。なかなか生活の中で気付かずにいます。生活の中で気付くことができれば幸いですが、遠回りのようでいて、教会に足を運ぶことが、イエスという何よりも大切な宝に気付く近道なのです。

ぜひ、いちばん大切なはずのイエスの姿を、教会の中で見いだしてください。「わたしがいつもあなたのそばにいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」この言葉に励まされて、また新たな年に向かう力を願い求めましょう。

あなたの中に、あなたの家族の中に、いつもイエスがそばにいるなら、イエスと共に家族は成長し続けます。
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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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