主日の福音09/12/24
主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)
民全体に、救い主は与えられた

主の降誕、おめでとうございます。今年も無事に、降誕の喜びを迎えることができました。イエスの誕生を記すルカ福音書の朗読箇所から、今年の降誕のメッセージとして2つの点を示したいと思います。1つは、「羊飼いが、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける」という点です。もう1つは、幼子の誕生が、「民全体に与えられる大きな喜び」であるという点です。

ヨセフとマリアは、皇帝の勅令に従って住民登録をしにベツレヘムに向かっていましたが、その途中でマリアは月が満ちて、初めての子を産みます。ヨセフとマリアは、幼子イエスを布にくるんで飼い葉桶に寝かせます。宿屋を見つけることもできず、家畜小屋のような場所で留まっていたのでしょう。

この幼子を最初に訪問したのが、羊飼いでした。羊飼いは、なぜお生まれになった救い主を最初に訪ねることができたのでしょう。確かに、天使が「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」と予告してくれましたが、それだけで見つけることができるものなのでしょうか。

わたしはこんなことを考えました。羊飼いは、家畜である羊の番をしながら夜を過ごします。羊飼いのために、村のはずれのあちこちに家畜小屋があったのかも知れません。彼らは心当たりのある家畜小屋を訪ね回っているうちに、救い主にたどり着いたのではないでしょうか。いくつもの家畜小屋があったとしても、彼らが日頃からそれらを利用していたとすれば、たやすく見つけることができたでしょう。

羊飼いが布にくるまっている乳飲み子を見つけた様子には、もっと大切な意味があります。出来事が、人間の歴史の中心ではなく、外れた場所で起こったということです。人間的な歴史を考えれば、今話題の中心は住民登録です。支配されている領土で、全住民を対象に、人口調査が行われているのです。実際、ヨセフとマリアも、登録のためにベツレヘムに上って行ったのです。マリアのお産のために、ベツレヘムに向かったのではありませんでした。

ところが、神の計画の中心は、人間的な計画の中心部にはなかったのです。人間が今一番関心を持っている場所ではなく、外れていると思われる場所で、神さまの計画の中心が、動き始めたのです。

これは、よく考える必要があります。わたしたちもふだんの振る舞いを考えると、どうしても人間的な計画が暮らしの中心になっています。仕事が入ると、ミサに平均的に参加している人でも、仕事に行かざるを得ません。考えの中心は、やはり生きるために働かなければならない、仕事や家庭のことを中心に考えざるを得ないと思っています。

その思いは、おそらくどうにも変えられないでしょう。わたしもそのことを、間違っていると言う勇気はありません。ただ、神の計画の中心は、人間が考えている中心とは少し違う場所にあることを知ってほしいのです。この特徴は、救いの歴史という大きな枠組みだけではなくて、あなたの救いという枠の中でも同じです。あなたを救おうとしている神の計画の中心は、あなたが中心に考えていることとはちょっと外れた場所にある。そのことに気づく必要があると思います。

次に、幼子の誕生は、「民全体に与えられる大きな喜び」です。「民」と言いましたが、人類全体と言ってもよいでしょう。クリスマスという名で祝っているこの日が、人類全体にとって、大きな喜びをもたらす出来事なのです。

そこで、すべての人が今日をどのように迎えたのか考えてみましょう。ある人は、幸せいっぱいでこの日を迎えたことでしょう。当面の心配事もない中で、無事に今日を迎えることができました。素直に、今日を祝う気持ちが与えられていると思います。

違う人たちもいます。今日を、悲しみの中で迎えている人々もいるはずです。わたしは12年前、12月16日に自分の主任司祭が肺炎で亡くなって、10日も経たないうちにクリスマスを迎え、お祝いの気持ちになれなかった年がありました。どうやってクリスマスのメッセージをミサの時に伝えればよいのか、途方に暮れていました。

けれども、そんな沈んだ気持ちの中でも、何かが与えられたのです。わたしが、クリスマスの希望のメッセージをその教会で語らなければ、誰が希望を語ることができるでしょうか。わたししかいないのだと思った時、何かが与えられました。わたしはその年、1997年に、次のような説教をしています。

(ですから)すべての「恐れ」から解き放たれて、今わたしたちは幼子の誕生を喜び祝うのです。「(主任司祭が今年も生きていて、)去年と同じクリスマスのはずだったのに」という恐れ、「こんな時にクリスマスどころではない」という恐れ、(一部省略)それらすべてから解放されて、今こそ、おおいに喜び合いましょう。幼子は来たのです。この○○教会に来たのです。誰もが、一筋の光を探し求めているところに来たのです。

希望が見いだせない人にも、幼子イエスは希望としておいで下さいます。誰にも慰めてもらえない、それほどの深い闇の中にある人にも、幼子は喜びとして与えられるのです。神が、その御子を、民全体にお与えくださったからです。すでに幸せを感じている人だけではありません。深い淵にある人にも、救い主は与えられたのです。だからこそ、互いに今日この日を喜び合いましょう。

巡回教会のここ大明寺教会では、説教のあとに幼子の洗礼式が控えています。ある保護者は言います。「子どもが自分で判断できるようになってから洗礼を受ければよいではないか。」これは、人間的な計画を中心に据えて考えた結果です。自分の判断で決めればよいではないかと言っているのですが、しばしば神の計画の中心は、それとは少し外れた場所で始まるのです。そして、この神のなさり方を受け入れる人こそが、神の計画に育てられて育つのです。

今日ここにおいでになっているご家族は、人間の思いを超えて働く神の思いに、わが子を委ねようとおいでになっています。大いに歓迎いたします。そして、今日すでに人間の思いを超えて働く神のわざを受け入れることで、いつか、困難や理解に苦しむ出来事を乗り越えなければならない時に、神がいつもそばにいること、神がわたしたちにも働いてくださることを実感できるようになるでしょう。

それでは、洗礼式に移ります。共同体全体で、見守り、見届けることにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
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