主日の福音09/12/20
待降節第4主日(ルカ1:39-45)
あなたの「挨拶」は聖書的な挨拶ですか

御降誕を直前に控えているこの待降節第4主日に、福音朗読は洗礼者ヨハネの母エリザベトと、イエスの母となるマリアを取り上げています。マリアが、ザカリアの家を訪ねて、エリザベトに挨拶します。今日は、聖書の中に出てくる「挨拶」について考えてみたいと思います。

マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書を通して「挨拶」という言葉が何回出てくるかを調べた所、13箇所見つかりまして、そのうち1箇所は日本語では「挨拶」という訳が入ってますが(ルカ7・45)、英語では挨拶に当たる言葉が見つかりませんでしたので、12箇所が実際には関係していることになります。

12箇所出てくる「挨拶」の場面をもう少しよく見てみると、はっきり2つの種類に区別されます。1つは、日本人がふだん考えている「挨拶」です。たとえば、イエスが弟子を宣教に派遣する場面で、次のような指示を与えて送り出しています。

「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。」(ルカ10・4)ここで言う挨拶は、「やあこんにちは。いい天気ですね」というような挨拶で、日本人にもよく分かる種類の挨拶です。この、「日本的な挨拶」が、12箇所のうち7箇所現れます。

あとの5回の挨拶ですが、これは日本語の「挨拶」では括れない場面です。たとえば、マタイが記すイエスによる弟子の派遣の場面で、「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」(マタイ10・12)と言っています。わたしたち日本人は、「平和があるように」と挨拶しません。つまり聖書に現れる挨拶の中には、日本人の感覚で掴みにくい「聖書の世界の挨拶」という感覚があるということです。この点を、まず押さえておきましょう。

では、「聖書の世界で考えられている挨拶」には、どのような内容が含まれているのでしょうか。先ほど紹介した「『平和があるように』と挨拶しなさい」とのイエスの指示からすると、聖書の世界で交わされる「挨拶」には、「こんにちは。お元気ですか」以上の何かが含まれていることが分かります。

さらに考えを進めるために、マリアに関わる例を拾ってみましょう。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」(ルカ1・29)マリアにかけられた挨拶とは、天使ガブリエルの「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1・28)というものです。

これは、日本人の感覚から言うと、「祝辞」に当たります。つまり聖書の世界の挨拶には、「祝辞の意味合い」「相手の祝福を願う意味合い」が含まれるということです。そう考えて福音書に出てくる挨拶を読み返すと、なるほどねと思います。「日本的な挨拶」と区別される挨拶の場面は、すべて「相手の祝福を願う」という意味合いがあるのです。

5つとも、ざっと目を通してみましょう。「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」(マタイ10・12)「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」(ルカ1・29)「(マリアは)ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」(同1・40)「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。」(同1・41)「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。」(同1・44)

みごとに当てはまります。まとめると、聖書の世界で「挨拶」は「こんにちは。お元気ですか」に終わらないということです。相手の祝福を願い、相手に祝福を送り届ける。それが聖書の世界で言う「挨拶」の意味合いなのです。

聖書の中の挨拶は今確認できました。ではわたしたちは、この聖書の世界の挨拶とどのような関係にあるのでしょうか。「聖書の世界の挨拶は分かるけれども、ここは日本だから、関係ない」ということでしょうか。わたしは、そうであってはいけないと思います。むしろ、聖書の世界での「挨拶」の役割を積極的に取り込んで、日本における「挨拶」の役割を塗り替えるような気持ちを持ってもいいのではないかと思います。

こういうことです。日本には、カトリック信者が40万人ほどいると言われています。日本の人口がざっと1億2750万人だとすると、318人に1人の割合になります。この、318人に1人しかいないカトリック信者が、「こんにちは。お元気ですか。神さまの祝福がありますように」と挨拶をすることで、日本的な挨拶が、聖書的な意味合いの挨拶に塗り替えられるのではないでしょうか。

もちろん、声に出して「神さまの祝福がありますように」と言うのは難しいかも知れません。わたしもたぶん声には出せないと思います。けれども、そんな気持ちを込めて挨拶をすることは、可能なのではないでしょうか。

わたしが、日本的な挨拶の中に聖書的なものの考え方を取り入れましょうと話している理由は、別のところにもあります。この日本では、聖書にしか出てこないはずの言葉がちゃっかり日本語で使われているのに、聖書的、あるいはキリスト教的な意味が完全に抜き取られて、いわば盗作されている言葉があるからです。

すぐに、2つ思い付きます。「洗礼」と「三位一体」です。プロ野球で初登板のピッチャーがめった打ちに遭い、火だるまになったとしましょう。翌日の新聞には「彼はプロの洗礼を受けた」と書き立てられます。当たり前のように「洗礼」という言葉が使われていますが、意味はまったく違っています。これは聖書の言葉を勝手に使っているいわば「盗作」です。

小泉純一郎さんが総理大臣だった時、「三位一体改革」という言葉が盛んに使われました。意味は横に置いて、言葉だけ借りてきての「盗用」です。日本語はどんな言葉でも探してきて、いつの間にか意味を横に置いて、日本で通用させているのです。本当の意味を、本当の使い方を、日本の中で取り戻すために何か行動を起こす必要があるのではないでしょうか。

「挨拶」の話に戻りますが、一方で聖書本来の意味、キリスト教本来の意味を持つ言葉が日本で乱用されているので、本来の姿に立ち帰らせるよう行動を起こす必要があるでしょうし、日本人がこれほど、もともと持っていなかった言葉を巧みに取り入れる国民なのであれば、「挨拶」に、わたしたちが積極的に関わって、「聖書的な意味合い」を少しずつ浸透させるなら、ひょっとすると成功するのではないかということなのです。

今は、318人に1人であっても、40万人全員が「こんにちは。お元気ですか。神さまの祝福がありますように」との思いを込めて挨拶をすれば、日本語の挨拶の意味合いは、いつか塗り替えられるのではないでしょうか。

マリアは、エリザベトに挨拶します。「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」(1・41)のです。マリアの挨拶に込められた祝福が、エリザベトのお腹にいたヨハネを喜び踊らせたのです。

わたしたちも、挨拶を交わす相手に、「祝福」を願いましょう。まずは、ミサの中での「平和の挨拶」からです。「主の平和」という挨拶は、「主のこんにちは」という意味ではありません。「主の平和が、あなたの上にありますように」という意味のはずです。

日本語の挨拶ですが、聖書的な意味合いを心に留めて挨拶し合うことで、この日本にキリスト教的な価値観、福音の種蒔きをしていくことができるように、機会あるごとに実践してみましょう。
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(ルカ2:1-14)
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