主日の福音09/12/13
待降節第3主日(ルカ3:10-18)
ごく普通の準備に、神の偉大なわざが実現する

馬込教会のクリスマスの飾り付けの日になりました。クリスマスの準備を、見える形で表す絶好の機会です。ぜひたくさんの人に参加してもらって、立派に飾り付けてほしいと思います。

クリスマスの準備は、見える形での準備と、見えない準備とがやはり必要だと思います。そこでわたしは、見えない準備について今日少し話してみたいと思います。馬込教会のように、待降節が始まると待降節専用のローソク台を準備する教会があります。待降節第1主日にはローソクが1本灯され、第2主日になると2本灯され、そうやってローソクが増えていきます。今週はローソクが3本灯されて、色鮮やかです。

このローソクは、ある人にとっては心の準備を促すともし火となります。先週、ローソクは2つだったなぁ。今週は、また1つ付け足されたなぁ。わたしの中で、先週よりも今週と、少しは準備が進んだかなぁ。そんなことを考えさせるきっかけのローソクになっているかも知れません。

もう1つ、見えない準備の例を挙げると、クリスマスの前のゆるしの秘跡です。ゆるしの秘跡を通して、心の準備をします。これも、見えない準備と言えるでしょう。そこで、思い出に残る、ゆるしの秘跡の話をしたいと思います。

確か、クリスマス前のゆるしの秘跡だったのだと思います。告解場に座っていて、足もとからしんしん冷えて、「あ〜、誰も来んやっか(誰も来ないじゃないか)」と思っていた時のことです。1人の男性が告白しに来ました。その男性は、20年ぶりに告白しに来たと言いました。

これ以上は秘密を守る必要がありますので言いませんが、わたしの心にはとても温かいものが伝わってきて、その日の2時間ほどのゆるしの秘跡の間、まったく寒さを感じることなく務めを果たすことができたのを覚えています。もう15年以上前のことなので、懐かしく感じます。

わたしは、当時の主任司祭に、その日に起こったことをどうしても話したくて、ゆるしの秘跡に20年ぶりに来たという人がいましたと話したのです。もちろん誰かも分かりませんし、来たことだけしか話しませんでしたが、主任司祭は「良かったなぁ」と言って喜んでくれました。今になって思うと、あれは神さまからのステキなクリスマスプレゼントだったのかなぁと思います。

福音朗読に入りたいと思いますが、人々は洗礼者ヨハネのもとに来て「では、わたしたちはどうすればよいのですか」(3・10)と尋ねます。それぞれ、いろんな立場の人々が、ヨハネの促す回心を実行したいと心の底から思っていたのです。

ヨハネの返事は、ごく普通の実践的な指示に留まりました。福音朗読の繰り返しになりますが、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(3・11)とか、「規定以上のものは取り立てるな」(3・13)また、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」(3・14)と勧めます。皆があっと驚くようなことではなく、毎日の生活で、毎日できることが、ヨハネの勧めた回心の実践だったのです。

わたしも、ヨハネのもとに行って、「わたしは、何をしたらよいでしょうか」と問いたい気がします。おそらく、毎日できることをヨハネはわたしに命じるでしょう。ヨハネが命じる回心のわざは、何を言わんとしているのでしょうか。

こう言うことかも知れません。だれもがあっと驚くことを見せびらかすよりも、毎日できること、今日しなさいと言われて今日できることを続けることのほうが、回心のわざとしては価値がある。そういうことなのかも知れません。そして、この当たり前のようなことを当たり前に続けていく中に、神さまのあっと驚く働きがある時降りて来るのではないでしょうか。

当時の、洗礼者ヨハネが勧めた、ごくごく自然な回心のわざを実践している場所に、イエスがおいでになりました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(3・16-17)人間では決してなし得ないわざが、イエスによってなし遂げられます。それも、あっと驚くような回心を果たしている場所にイエスがおいでになるのではなく、ごく普通の、毎日できることを繰り返しているその場所に、イエスはおいでになるわけです。

このことでわたしは、15年前のクリスマス前のゆるしの秘跡を思い出すのです。「あ〜寒い。誰も来んやっか」と文句たらたら告解場に座ったわけですが、神さまは1人の男の人を遣わしてくださいました。毎年の、クリスマス前のゆるしの秘跡の時間を設けたことで、その人はやって来ることができたわけです。

いつ来るか分からない人を、いつ来るか分からないからと言って待たないのでは、きっとその人と出会えないのだと思います。20年ぶりにやって来るその人と出会うためには、20年間、毎年毎年、同じことを同じように繰り返して待ってないと、出会えないのかも知れません。

20年前と、告白をした神父さんは違っていたかも知れません。けれども、20年前から、毎年変わらずクリスマス前のゆるしの秘跡を続けていたので、その人は告解場に座ったのかも知れないなぁと思ったのです。司祭にとって、司祭にできる当たり前のことを、当たり前に果たしているその場所に、神はあっと驚くわざをなし遂げられるのだと思います。

神の独り子の降誕は、神が行うわざの中でも、最上のわざ、あっと驚くわざだと思います。その、神にとってもあっと驚くわざは、人間があっと驚く回心を準備していたから与えられたわけではないのです。救い主を、いつも通りに、いつもの形で準備しているところに、与えられたのです。わたしたちは、この神の不思議ななさり方を、じっくり思い巡らせたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:39-45)
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