主日の福音09/12/06
待降節第2主日(ルカ3:1-6)
谷は埋められ、山は低くされる

土曜日に、大明寺教会でたった1人残っている小学生に声を掛けて、ミサのお手伝い、「侍者」の練習をさせました。もちろん、日曜日のミサで侍者デビューをさせるためです。大明寺教会では、今日のこの日のミサから、侍者をしてイエスさまにお仕えしております。侍者は、見える形では司祭にお仕えしていますが、本質的には目に見えないイエスさまにお仕えしているのだとわたしは思っております。

さてその土曜日の練習ですが、小学1年生ということもあって、最初から全部を教えませんでした。全部教えると全部忘れる可能性がありますので、今回は説教が終わって、パンとぶどう酒、お賽銭などの奉納を受け取る部分まで、要するに前半部分までを教えたのです。わたしの考えとしては、次にもう1度練習の時間を設けて、後半部分を練習して、それで全体を教える予定でおりました。

本当に素直な子なので、練習はスムーズに進んだのですが、それでも分からないことを尋ねる時はドキッとする時もありました。こんなことがありました。「神父さまのお話『説教』が終わったら、ちょっとお祈りをしたあとに、ぶどう酒とか、パンとか、献金とかを真ん中に行って受け取るんだよ。お説教の終わった後だけど、『説教』って分かる?」

「わかりません」「神父さまのお話さ」「神父さまって、どんな話をするんですか?易しい話ですか?」「易しくはないねぇ。難しいかな〜」「大人の人は話を聞いて笑いますか?」「少し、笑うかなぁ」かなり鋭い質問でたじたじでしたが、どうやら一回も話を聞いたことがないらしいなぁということははっきりしました。

もう1つおもしろいなぁと思ったのは、奉納を受け取る部分まで終わって、それをさらにもう1度おさらいして、さて今日の練習は終わりだよと小学生に声を掛けますと、その子がこう言ったのです。「えー?鈴を鳴らす練習はないのかなぁ。」

これには参りました。「鈴?そうかぁ。鈴をどうしてもやりたいか。じゃあ鈴の練習もするか。鈴は6回鳴らすんだよ。」6回鳴らす場面を実演して教えますと、本人は安心したようでした。○○君にとって、侍者とは鈴を鳴らすことができる特権を与えられるということなんだなぁ、今までやっていた侍者のおじさんの姿を見ていて、鈴を鳴らす場面が、何よりもその子の心を捉えていたんだなぁとよく分かりました。

数年ぶりに侍者をする子が与えられて、神さまは何か、その教会に必要なものを与えてくれるんだなぁと実感しました。すべての教会共同体に侍者が与えられるという意味ではありませんが、どの教会にも、何かを与えて下さって、「地の塩」「世の光」としての使命を果たしていけるようになさるのだなぁと思ったのです。

福音朗読では、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、使命を果たす活動が始まりました。ヨハネが現れた時代に限ったことではありませんが、社会には谷があったり、山があったりします。社会で光が差さない部分、落ち込んでいる部分を谷と表現していると考えてみると、明るい話題がないなぁとか、この先じりじりと活力がなくなっていきそうだなぁとか考えている人々に、希望の光を神は与えるわけです。

そのことを洗礼者ヨハネは、荒れ野で人々に告げ知らせるのです。ただし、ヨハネが与えるのではなく、神が、来るべきお方を通して与えてくださると知らせます。

「山と丘とはみな低くされる」(3・5)とあります。問題が山積み、抱えている課題がいっこうに解決しない。そういう状況は、ため息の出る山のように見えるかも知れません。解決できそうにない現実を、神は解決に導いて低くして下さいます。この場合も、洗礼者ヨハネがそれを果たすのではなくて、あとに来られる方が必ずそうしてくださると、人々に告げるのです。

誰も、このような希望を語ることができなかった時に、神は洗礼者ヨハネを与えて下さって、語り掛けたのでした。「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(3・6)とは、未来を語る人がいなかった時に、洗礼者ヨハネが未来を語り、もうすぐ救い主が来ることを知ったということです。深い谷と、ため息の出るような山を、なだらかにしてくださる救い主が、すぐそこまで来ています。

洗礼者ヨハネの姿は、神がその民に、また時代に応じて何かを与え、力強く導いてくださることのしるしだと思います。わたしたちはどうしても、あれもないこれもないと考えがちですが、きっとどこかで見落としがあるのではないでしょうか。何も与えてくれず、何も残してくれずに、神がご自分の民を放っておくとは思えません。きっと、何かを与え続けておられるはずです。

わたしは、主の降誕が、見えるしるしだと思います。幼子としておいでになった主は、豊かな場所に降りてきたのではありませんでした。家畜が避難する場所に、お生まれになりました。人が、人として扱われる場所ではなく、動物が世話を受ける場所に置かれたのです。それは、社会の谷底、光の届かない場所に、神は光を届けるというしるしだったのではないでしょうか。

ぜひ、この待降節に、わたしたちの教会にどんな光が注がれようとしているのか、考えながら御降誕の日を待ちましょう。なかなか光が見えない中で、見落としているものがあるかも知れません。こんな形でわたしたちに「地の塩」「世の光」となれる材料を下さっていた。そんな気づきが与えられて、喜びをもって御降誕を迎えることができるように、聖霊の照らしを願うことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ルカ3:10-18)
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