主日の福音09/11/22
王であるキリスト(ヨハネ18:33b-37)
王であるキリストのもとで暮らす

今日は、「王であるキリスト」の祭日です。教会の暦(典礼暦)の考え方では、主の降誕を準備する「待降節」から1年の暦が始まって、今週「王であるキリスト」の週で1年が終わります。今週と、来週は、区切りとなる週です。できれば、覚えておいてほしいと思います。

ちなみに、先週は年間第33週でした。勘の良い方でしたら、「年間第30週あたりになってきたから、そろそろ教会の暦も1年の終わりだなぁ」と見当つくようになります。ぜひみなさん、勘の良い人になっていただきたいです。

最近よくたとえに使う話ですが、昔、勘の良くない人を「蛍光灯」と言っておりました。けれども、今の時代の蛍光灯は、スイッチを入れたらパッと点灯するのです。ですから、昔の蛍光灯ではなく、現代の蛍光灯くらいには、パッとひらめいて見当をつける人であってほしいと思います。

今年の教会暦の最後の週に、ヨハネ福音書のイエスの裁判の場面が朗読されました。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」(18・33b)と尋問しています。「ユダヤ人の王なのか」という呼び掛けには、いろんな意味合いが込められていたことでしょう。「ユダヤの国の支配者」「散り散りになっているユダヤ人を1つにまとめる権力者」「ユダヤ人が信じ、待ち望んでいる王による支配を実現する人物」そういう複雑な意味合いが含まれた質問だったと思います。

今述べたような意味合いで、ピラトが問いただしても、イエスはあまりそれには反応しませんでした。ピラトが聞きたいのは、ピラトの頭の中にある「王のイメージ」で描かれている姿かどうか、という点だったのです。

ピラトにとって、王とは1国の支配者、せいぜい、たくさんの国の支配者で、時の権力者である。時の権力者であれば、権力争いに明け暮れ、ほかの国の王との争いや、内部分裂を避けることや、国民の理想をつねに気して力を示す人物のはずです。それなのに、イエスにはいっさいそのような雰囲気は見られないのです。そのため、「お前がユダヤ人の王なのか」という問いになったのでしょう。

イエスは国王のような王ではありません。ユダヤにはヘロデ王がいました。ましてや、ユダヤ人の力を結集して何事かを企む人でもないし、単純な「ローマの支配からユダヤ人を解放するために待ち望まれた王」でもなかったのです。

イエスの次の言葉が、ご自身の考えをよく物語っていると思います。「わたしの国は、この世には属していない。」(18・36)イエスは、尋問したピラトが考えているような、1国の王、またいくつかの国の王ではなく、「人類の王」「すべてのものの王」なのです。今日はこの点を考えてみたいと思います。

イエスの国は、「この世に属していない」と言います。「この世に属している国」は、どんな形をしているのでしょうか。まず、「この世に属している国」は、国境があります。隣の国や、対立する国とつねに領土争いをしています。「その島は、わたしたちの国のものだ」と言い合って、いつまでたっても解決しません。とても面倒で、不安定です。

イエスの御国はどうでしょうか。きっと、領土など全く縁のない国なのだと思います。すべての人が温かく迎えられ、どこまで行っても、どこででもイエスの導きが行き渡っている国です。

また、「この世に属している国」は、その国によってさまざまな法律や習慣があります。自分の国では当たり前の規則でも、別の国に行けばまったく反対の規則だったりします。「この世に属している国」の規則や習慣は、しばしばその国特有のものに過ぎません。

イエスの御国では、規則はどこにいても、どこででも同じです。すなわち、イエスの望みにかなうか、かなわないかが、すべてのものの基準なのです。イエスの声に聞き従うことが、唯一の規則なのです。王であるキリストに従うこと。これだけが、イエスの御国で求められる決まり事です。

もう1つ考えてみましょう。「この世に属している国」では、王は国民から生活の糧を得ています。つまり国民から税を徴収し、国民が王を養っているのです。イエスは次のような問いかけをペトロにしたことがあります。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」(マタイ17・25)

イエスの御国では、誰も税金を取られることはありません。誰からも貢ぎ物を求めません。それどころが、イエスご自身が国民のために命をささげ、国民の命を救うのです。この世に属しているどんな国の王もなし得ない、驚くべきわざを、この世に属していない御国の王であるキリストがなし遂げます。

イエスの御国は、この世に属している国とは明らかに性格が違っています。国境のない国、唯一の規則で導かれている国、王が民のために命をささげる国です。そこでわたしたちに問いかけられていることを考えましょう。わたしたちは、王であるキリストから、何を問われているのでしょうか。

わたしはそれを、聖パウロの1つの言葉で説明したいと思います。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(エフェソ4・5-6)つまりわたしたちは、パウロの言う「すべてのものの上にあり、すべてのものの内におられるお方」を意識して、生きるようにと求められているのです。

人が、わたしたちの暮らしぶりを見て、「誰かがあなたたちの上におられる暮らし方をしている。あなたたちの上におられる方は誰なのか」と感じさせる暮らしが大切です。「誰かがあなたたちの内におられる暮らし方をしている。あなたたちの内におられる方は誰なのか」そう感じさせる暮らしが、わたしたちに求められている暮らしなのです。

ひとことで言うとそれは、「王であるキリストのもとで毎日を暮らす」ということです。わたしたちは典礼暦の最後の週を迎えています。この1年、「王であるキリストのもとで日々を暮らしてきたか、思い返しましょう。もし、ふさわしく過ごせてなかったとしても、せめて今週1週間、こうした意識を持って、暮らしを調えてみましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(ルカ21:25-28,34-36)
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