主日の福音09/11/15
年間第33主日(マルコ13:24-32)
だれも知り得ないからこそ、懸命に努力する

今週の説教の準備には苦しみました。苦労したのではなくて、苦しみました。結果的に、原稿を形に残すのは、今日のミサがすべて終わってから、午後からということになりそうです。その辺の事情も含めて、分かち合いたいと思います。

今週、1つの講話を仕上げて、達成感を味わいました。ミサのお知らせで紹介した、「マリア文庫」に関わる講話です。「マリア文庫」は、長崎レデンプトリスチン修道院のシスターが代表を務めているボランティアのグループで、視覚障害者に奉仕するための集まりです。月に1度、テープを作成して、何百名もいるであろう会員に毎月お配りしています。

90分のテープには、視覚障害者が必要としている日常の役立つ情報や、話題になっている本の朗読、また中田神父が担当している「宗教コーナー」など盛りだくさんの内容で構成されています。わたしの担当である「宗教コーナー」は、15分と決められていて、その中で毎回違った内容で心に働きかけるような講話をしています。これまで7年以上続けておりますので、もうすでに80回くらいは原稿を作ってそれを録音して、お届けしています。

今月提出分も、無事に作成しました。土台になっている経験は、インターネットの掲示板に、「○日に伊王島に行きます。昼食をホテルで食べ、温泉につかります。時間があったら、教会にも立ち寄りたいと思います」という書き込みが入ったことでした。この書き込みから始まった出来事を膨らませて、15分の宗教講話に仕上げます。

訪ねてくるという書き込みをした人は、予想に反し、午前中もおいでにならないし、午後になっても来る気配がありません。ずっと司祭館を離れないように気を付けて一日を過ごしたのですが、とうとうお会いできませんでした。時間が無くなって、教会までは足を延ばせなかったのかな。そんなことを思っていたのです。

その日の晩、インターネットの掲示板を何気なくチェックしてみたら、昼1時の時点で、「今日は風が強いので伊王島行きは中止しました」と当人の書き込みが入っているではありませんか。ちょっと残念な気持ちになりました。

ここから話が少し広がります。その日は確かに風が強くて、五島列島行きの船は、全便欠航していたのです。伊王島行きの船は運航したのですが、あの日船に乗って伊王島においでになっていたら、間違いなく船酔いしていたに違いありません。天気に対する受け止め方が、訪ねてくるその人と、わたしとでは違っていたのだなぁとあらためて感じました。

こういうことです。長崎の大波止に、伊王島にお出かけしようと思っている人と、島に帰ろうと思っている人とがいるとしましょう。伊王島にお出かけしようかなという人は、海上が荒れていると聞けば、船酔いが心配だなぁ、延期しようか、そういう気持ちが働くと思います。今日行かなければ次に行く機会を失ってしまうという人以外は、またの機会でも構わないわけです。

一方、伊王島にいる人は、海上が大荒れであっても、いったん出かけた先からは、何が何でも出てきた伊王島に戻る必要があります。伊王島が、その人が出て来て戻る場所であるか、単に出かける先の場所であるかで、間に横たわる荒れた海をどう受け止めるかは、大きく違ってくるわけです。わたしは、全面的に伊王島に住んでいる人間の立場に立って、何とかして来てくれるのだろうと判断してしまったのです。

そこから思い付くことは、行き先が、出かける場所であるか、出て来て戻る場所であるかで、行き先に対する気持ちの強さは違ってくるということです。伊王島に立ち寄りますと明言したとしても、その人にとって伊王島は出かける場所ではあっても、出て来て戻る場所ではありません。辛い思いまでして行こうとは思わないというのはもっともな話です。

さらに、話を展開します。わたしたちの生活の中にも、似たようなことはたくさんあるのではないでしょうか。病院に行くのが嫌い。そんな辛い思いまでして病院のお世話にはなりたくない。こんなに辛いのだったらもう家に帰りたい。病院を嫌う理由は探せばいくらでも出てくるでしょう。

けれども、病院が、命をつなぐ場所だとしたらどうでしょう。ある人は、透析を受けていて、週に1回の透析を続けなければ、命を落としてしまいます。こんな人にとって病院は、単に出かける場所ではなくて、命をつなぐために、出て来て戻る場所なのではないでしょうか。病院が、透析患者の自宅という意味ではありませんが、自宅でもとの生活を取り戻すための、出て来た場所に戻るための、必ず必要な通り道なのです。

もし病院嫌いのすべての人が、本来の健康な生活に戻るために、その通り道に病院があると考えるなら、これまでとは違った対応を考えるようになるでしょう。わたしも歯医者は大嫌いですが、本来の健康な歯を取り戻すために、途中立ち寄ってしっかりアドバイスを受ける場所と考えると、やはり嫌い一辺倒ではいられなくなることがよく分かります。

わたしたちにとっては、「出て来て、本来戻る場所」こそが、何より大切な場所だと思うのです。もちろんすべての人に単純に当てはまる話ではないでしょう。施設に暮らしている人に、今いる施設があなたの戻るべき場所だと、そう簡単に言うつもりは決してありません。一人一人が、「出て来た場所に帰る旅路」を生活の中で見つけてほしいのです。

そして話の結論です。「出て来た場所に帰る旅路」は、わたしは一人一人の人生そのものだと思っています。わたしたちは愛深いお方から命をいただいて、命を与えてくださった方のもとに戻るまで、地上の旅をしているのではないでしょうか。そして、この旅は命を与えてくださった方のもとに帰るためにどうしても必要な旅なのです。命を与えてくださった方がどれほど素晴らしい方か、どれほど愛深いかを、今この旅で知るためです。

こうして、11月分のマリア文庫に依頼されている原稿は出来上がりました。とても満足しています。じつは今日のミサのための説教も、そうなる予定だったのです。それが、結婚式の仕事を終えてから原稿作成に取りかかった夕方、夜、夜遅くになっても、いっこうに書けそうな気配がしませんでした。

今日の福音朗読箇所の最後のみことばの通りです。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」(13・32)今週の仕事として、マリア文庫の原稿はすらすらと書けたのです。

けれども日曜日のための説教は、今週に限っては、どんなに時間が過ぎても、頭を絞っても、何も出てこなかったのです。「夕方から時間を目一杯使えば、何とかなるだろう。」わたしはこの時点で、「その日、その時」を自分で設定していたわけです。

イエスは今週わたしに、苦しみを与えてくださったのだと思います。「その日、その時は、だれも知らない。」そのみことばを前にして、思い上がりを砕いてくださったのだと思います。まぁ何とかなるだろう。何ともならない経験をさせて、わたしにみことばへの真摯な態度を要求なさったのだと思いました。

わたしたちは、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。」そう言われてしまうと、つい、だったら何をしてもしかたない、意味が無いじゃないかと思ってしまいます。そうではなくて、「その日、その時」は確実に救いの日なのだから、わたしたちは今、今を大切に、過ごしていく必要が出てくるのではないでしょうか。その時がいつかは分かりませんが、救いのその時が来ることは確実なのですから、今を懸命に生きること、今を信仰とうまく結び付けて生きることが、わたしたちに求められていることだと思います。

最後に、わたしたちにとって、いちばん関心のある「その日、その時」はいつでしょうか。おそらく、「わたしはいつまで生かされているだろうか」という「その日、その時」ではないでしょうか。それについて最後に考えて、今週の説教を終わりたいと思います。

もちろん、わたしの人生はいつ「その時」を迎えるのか、だれにも分かりません。だれにも分からない出来事について、人間は2通りの態度を取ることを考えました。だれにも分からないのだったら、気ままに過ごしていいじゃないか。それも1つの生き方でしょう。

けれども、「だれにも分からない、だからなおさら、今、今を大切に生きる」この生き方もあります。もちろん、どちらを選んで生きるべきかは明らかだと思います。そのことに加えて、今を懸命に生きる1つの心がけとして、「出て来た場所に帰る旅路」と捉えて生きてみてはいかがでしょうか。

愛深いお方から命をいただいて、命を与えてくださった方のもとに戻る「その日、その時」まで、地上の旅をしているのです。今、この時を懸命に生きて、信仰に結び付けながら生きて、命を与えてくださった方がどれほど素晴らしい方か、どれほど愛深いかを、今この旅で知ることは、賢い人生の選択に違いありません。
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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(ヨハネ18:33b-37)
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