主日の福音09/11/08
年間第32主日(マルコ12:38-44)
まだすべてを委ねて働いてなかった
今週の福音は、歳を重ねるごとに、難しい呼び掛けに聞こえる箇所だと感じます。「やもめの献金」について取り上げられている箇所ですが、イエスはやもめの態度を高く評価して、「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(12・44)と仰っています。
イエスは明らかに、やもめの態度を例に引いて、神に信頼して、すべてを委ねなさいと呼び掛けているわけですが、わたしたちはおそらく、歳を重ねれば重ねるほど、この呼び掛けに抵抗を感じるのではないでしょうか。理屈では分かっていても、呼び掛けに応じられませんと、こちらの事情を並べてしまうのではないかと思うのです。
きっと、若い時代であれば、自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れるというようなことも、実行可能かも知れません。貯金を全部はたいて、裸一貫でやり直す。それはそれで冒険に満ちた、夢のある話です。けれども、そんな冒険も、歳を取ってからでは無謀に思えるのです。
店を構えたり、会社を興したりするのに、貯金も、家も、土地も、カネになるものは全部売り払って、次の夢にかけてみる。それは、若いからできるのであって、長く愛着のある土地や家を手放すことは、歳を取ってからでは絶対に無理。苦労もしてきたし、自分たちの歴史が刻まれている。だから、誰にどう促されても手放せない。きっとそうだと思います。
それでも、イエスはやもめの献金に目を向けさせます。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」(12・43)やもめが入れたお金は、額としてはゼロに近い額です。それでも、どんなお金であったかを考えれば、大変勇気の要る行為でした。
彼女の勇気は、神への信頼から生まれた勇気です。わたしを見守っておられる神は、わたしを決して見捨てたりはしない。わたしが無一文になっても、誰に笑われても、神はわたしを見捨てたりはしない。こうした神への絶対の信頼があったので、彼女は生活費を全部入れることができたのです。生活費を全部入れるということは、明日の運命を全部神に委ねたということです。
さてここまでのことは、わたしたちも子どもではないのですから、理屈は分かっているのです。理屈は分かっているのですが、じゃあわたしも真似してみよう、わたしなりに神に明日を委ねて、持ち物を手放そうと思っても、そう簡単にはいきません。現実はそう簡単ではないのです。手放してしまえば失ってしまう。その恐怖は、そう簡単にはぬぐえないのです。
簡単ではないですが、それでもイエスの呼び掛けに背を向けるべきではないと思います。わたしたちは神に信頼することを優先するために、失う恐怖と向き合わなければなりません。そこで、身近な所で起こった2つの体験から、何か感じ取っていただけたらと思います。
最近の話ですが、わたしが知っているある人のことである情報が耳に入りました。その人が、教会に行かなくなったそうです。わたしはビックリしました。わたしがその教会にいた時、顔を見ない日はないくらいだったのに、教会に行かなくなっているというのです。一体どうしたんだろう。何があったんだろうと思いました。
いろいろ聞こえてくる中で、わたしが1つ心配しているのは、何があったにせよ、教会に行かなくなったら、解決にならないのではないかなということです。その人の中で筋の通らないことがあって、もうついて行けないと感じ、教会に行かなくなったのかも知れません。その人にはまだ、何か神さまに委ねることができないものがあったのではないか。どうしても委ねきれない何かがあったのではないか。そのことが気に掛かります。
もう1つの話をします。わたしは教区の広報委員長を務めており、その任務も4年が過ぎました。4年過ぎてみるとどこかでわたしの中に油断とか、隙ができてしまい、知らないうちに迷惑を掛けているのではないかなぁと感じたのです。たとえば、原稿の依頼も最初の頃のようにていねいに頼まず、頭ごなしに押しつけるようになっていたのではないかと感じたのです。
最近気になった原稿の依頼があります。わたしは1人の依頼者に、いつものように内容を分かりやすく書いたFAXを送って、原稿の依頼をしたのですが、引き受けてはもらえたのですが広報の事務の人から、「一声掛けてもらいたかったようですよ」と言われたのです。これは失礼なことをしてしまったかも知れないと、あとになって考え込んでしまいました。
時間をさかのぼって、電話で声を掛け、お願いし直すということもできません。実際に引き受けた時の様子を聞いてはいないのですが、やはり、礼を尽くしてなかったかも知れないなぁと、事務の方の報告を聞いて申し訳なく思ったのです。
そこで、わたしは何かしなければと思い、行動を起こすことにしました。お願いの仕方が今ひとつ十分でなかったことを、直接行って気持ちを伝えることにしたのです。それこそ、電話を掛けてお詫びを言うこともできましたが、もっと直接気持ちを伝えた方が良いと思い、その人のもとに出向くことにしました。
やはり、行動を起こして良かったと思いました。わたしは、今回原稿を依頼した人のもとへ出かけて気持ちを伝えるまでは、今日の福音朗読の「大勢の金持ちがたくさん金を入れていた」という、そんな態度だったのだと思います。つまり、「毎月の教区報を作るため、ごらんなさい、こんなに努力しているんですよ。協力してくれるのが当然でしょう」そういう気持ちがどこかに隠れていたのではないかと思ったのです。
けれども、わたしにはまだ自分をすべてさらけだす勇気が足りなかったのだと思いました。原稿をお願いする人には、ちゃんと依頼の内容が分かるようにお願いしたのだからそれで十分だ。それ以上骨折る必要はない。自分は正しいんだと言い張ろうとする気持ちが、どこかにあったのだと思います。
わたしのほうは、すべきことをちゃんとやった。これでは金持ちが有り余る中からお金を投げ入れているのと同じです。わたしがどう思われるかよりも、教区報が本当に教区民に喜ばれる広報紙となるように、自分の持っている物をすべて、できる努力を惜しまずいっさいを入れる。その努力が足りなかったと今回感じたのです。
わたしは頼む立場で、相手は引き受ける立場だ。その思いがあったかも知れません。いったん広報委員長と呼ばれてしまうと、無心で原稿をお願いしていた純粋な気持ちは失われ、原稿を依頼したのだから書いてくれるのが当たり前だというような気持ちが、どこかで捨てきれなかったのだと思います。
原稿の依頼をした人の自宅に直接出向いて、本当の気持ちに触れることができました。すべきことをすれば、それで十分だという、閉じこもっていた自分の殻を破って、気持ちよく相手に原稿を書いてもらうために、できるすべてをつぎ込む。その必要に、あらためて気付くことができました。
「努力してるでしょ。見て分かるでしょ。」こんな密かな考えが、隠れていたかも知れません。すべてを神への信頼に委ねて、残さず全部努力をささげる。十分と思い込んでいた努力をまた一からやり直す。そのための力を、登場したやもめから学び取りたいと思いました。
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‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(マルコ13:24-32)
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