主日の福音09/11/01
諸聖人(マタイ5:1-12a)
すでに世にあって変わらない生き方がある

今日、諸聖人の祭日です。そして、馬込教会では11月最初の日曜日なので、馬込共同墓地で、追悼ミサを計画しました。典礼上の「死者の日」を記念するのは、明日2日が正式な日です。

今年の説教は、諸聖人ということを少し頭に置いて、話したいと思います。まず、教会が誰かを聖人や福者として尊敬するようになるのは、必ず死者に対してのことです。生きている人を教会が聖人とか福者と認めることはありません。ここに集まっているわたしたちは全員生きておりますので、生きている限り、わたしたちは誰も聖人でも福者でもありません。念のため、聞いておきますが、もし死んでいる人がいたら、手を挙げてください。いませんよね。

もう少し話を進めましょう。教会はすでに亡くなった誰かを、聖人や福者として尊敬します。つまり、墓に眠っている人、すでに眠りについた人たちの中のある人たちが、神によって聖なる人々とされているのです。

なぜ、亡くなった人々の中に聖人や福者が存在して、生きているわたしたちは聖人や福者に選ばれないのでしょうか。わたしはこう考えます。生きている人は、今後、置かれている状態が変わる可能性があります。流動的です。一定の生活をしてはいますが、がらっと変わる可能性があるわけです。

飲んでばかりで、朝になると起きられず、前の日にはミサに行くと約束していた人が朝になるといつも起きることができなかった。そういう人が、ある時からがらっと変わり、家族の先頭に立ってミサに行くようになった。こういったことが、ないとは言えません。変わることがあり得ます。

これに対し、すでに亡くなった人々は、置かれている状態が変わることはありません。すっかり心を入れ替えたりとか、道を誤ってしまうなどのことは起こらないのです。ですから、亡くなった人々に対して、神ははっきりとその人の状態を宣言することになります。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」(マタイ25・34)

わたしたちには、神からのこのような宣言はまだ先のことですが、今わたしたちがミサの中で心に留めている人々、追悼ミサの中で思い出している、すべての亡くなられた人々は、先の話なのではなくて、今の話、今まさに神からの宣言を受けているに違いありません。ですから、わたしたちがミサの中で心に留めている人々は、今、幸いな人々なのです。

福音朗読に入りましょう。イエスはご自分を取り囲んでいる群衆を前にして、山に登り、教えます。「口を開き、教えられた」(5・1)とあるのですが、教えると言うよりも、すでに幸いなのだと、勇気づけ、喜びを与えようとしているかのようです。

そして、もっと重大なことがあります。生きている人に、イエスは「幸いである」と呼び掛けているのです。状態が変わるかも知れない、明日どのようになるのか分からない、そうした生身の人間に、イエスは「幸いである」と呼び掛けるのです。この点に、注目したいと思います。

わたしは、亡くなった人々は状態が変わらないので、神は聖人や福者にふさわしい人々にはその幸せを宣言すると、そう言いました。何か、イエスが今週の福音で呼び掛けている人々と、共通する点があるのでしょうか。生きているわたしたちがはっきり「幸いである」と呼び掛けられていることと、天の国での幸いと、何かつながっているのでしょうか。

わたしは、つながっていると思います。このように考えてみました。イエスが仰った「幸いな人々」は、その生き方を変えずに生きていくことができる人々です。すべて、拾い上げてみましょう。「心の貧しい人々は、幸いである。」「悲しむ人々は、幸いである。」「柔和な人々は、幸いである。」「義に飢え渇く人々は、幸いである。」

「憐れみ深い人々は、幸いである。」「心の清い人々は、幸いである」「平和を実現する人々は、幸いである。「義のために迫害される人々は、幸いである。」「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。」

世を生きているわたしたちが、ずっと変えないで生きていける道が、ここに示されているのではないでしょうか。物持ちになっている時期があったり、そうでない時期があったりします。健康に恵まれ、順調そのものである時期もあれば、健康を害したり年齢による衰えを感じたりして今日生きるのが大変だという時期もあります。すべての例を並べてはいませんが、わたしたちの人生にはあらゆる浮き沈みがあるわけです。

それでも、どんなに人生の浮き沈みがあっても、イエスが示した生き方は、ずっと変えないで生きることができるのではないでしょうか。今生きている時に、イエスが「幸いである」と呼び掛けてくれるのは、この、変わらない生き方を選ぶ人々なのです。浮き沈みの激しい世にあって、変わらず、変えずに保つことのできる生き方は、まさに天の国の生き方の先取りなのではないでしょうか。

そこで最後に、わたしたちが今日のミサの中で心に留めている人々のことを思い出しましょう。あなたの心にあるその人は、イエスが示した生き方に倣って生きた人々ではないでしょうか。人生の激動を生き抜いて、どれか1つでもいいから、イエスが示した生き方に沿って歩んでいたなら、その人は天の国の生き方を先取りしていた人です。

わたしはその人々に、イエスに倣って「幸いである」と呼び掛けたいと思います。もしさまざまな人生の浮き沈みに振り回されていても、深い海の底の部分では、生き方を変えずに、イエスの呼びかけに応えた人生が流れていたはずです。

わたしはその深い部分での流れを、信じたいと思います。その人を思い返す時、振り回された表面の部分ではなくて、変わらず、変えずに生きたイエスの示す生き方を、神も見てくださっていると、信じたいと思います。

わたしたちが心に留めているすべての死者が、諸聖人の列に連なる生き方、すなわち浮き沈みのあるこの世にあっても変えずに生きることのできる生き方を持っていた。小さな事でもいいから、ぜひそのような点を思い起こして、神に感謝しましょう。

そしてわたしたちも、変わりやすい世の中にあって変わらない生き方ができることを、一人一人の生活の中で体験しましょう。その生き方は尊いのだと、周りの人に自信を持って伝えることができるよう、証しの力を願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(マルコ12:38-44)
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