主日の福音09/10/25
年間第30主日(マルコ10:46-52)
イエスは立ち止まり、わたしを呼んでくださる

わたしは大波止に少し早く着いた時に、椅子に座って周りの人を見渡すことがあります。癖なのかも知れません。周りの人を見渡して、興味深い人を見つけると、知っている人か、知らない人かは関係なく、次のようなことを思い巡らします。「あの人は、今、どんなことを考えているのだろうか。」時間があると、よくこんなことを考えています。

わたしが興味を持って、「今この人は何を考えているだろうか」と推理する人はいろいろです。人生の晩年にさしかかっている人、わたしよりもはるかに若い人、わたしと同世代かなぁと思える人、男性女性、いろんな人に興味関心を持って、言わば観察しているわけです。おそらくこんなことかなぁと見当のつく人々もいますが、中にはどうしても見当つかない人々がいます。

具体的に何がどう分からないかと言うと、ある人々は、座っていてほとんど動きません。全く動かないので、考えていることを予想するきっかけがありません。何かを見ているようなのですが、何を見ているのか分かりません。どうやら、目の前のものを見ているわけではないようです。そこでひとまずこう考えました。「あの人については、何を考えているのかは分からない。」

けれども、何も分からないというのも悔しいので、なぜ皆目見当がつかないのかを次に考えることにしました。そこで1つのことに思い当たったのです。それは、「その人の考えそうな場所に、一緒に立ってみる必要がある」ということでした。

たとえば、わたしが興味深いなぁと思った人が、わたしよりも早くから大波止ターミナルに座っていたとします。おそらく、その人が座りに来た時間に座って、立ち上がるまでそこにいなければ、その人のことは何も分からないかも知れません。ちらっと見ただけでは、早くから座り、そこで時間を使っている人の気持ちにはなれないということです。

反対に、大波止ターミナルに長く座っていない人の考えていることは、いろいろ考えつきます。その人のしぐさや、待っている様子を観察していると、あー、今こんな気持ちでここに座っているんだなぁと、何となく分かるわけです。対照的に、大波止ターミナルに30分も前から座って船を待っている人の気持ちは全く分かりませんので、30分前から一緒に座って研究する価値があると思いました。

さて、福音に入りたいと思います。目の不自由な人が登場します。イエスは弟子たちや大勢の群衆と一緒にエリコを出て行こうとしていました。ティマイの子バルティマイとイエスとは、エリコを出て行けば、この先2度と、会うことはないかも知れません。イエスでなければ、深い深い悩みを取り除いてはもらえないと直感した彼は、大声で叫びます。

わたしは、イエスのちょっとした動作に興味を持ちました。「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。」(10・49)という部分です。イエスが立ち止まったということに、特別な興味と関心を持ちました。目の不自由なバルティマイが「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(47節)とどれだけ叫んでも、多くの人々は叱りつけて黙らせようとはしましたが、立ち止まることはなかったのです。

弟子たちおよび群衆と、イエスとの違いを見逃さないようにしましょう。弟子たちと群衆は、立ち止まらなかったのです。ところが、イエスは立ち止まり、「あの男を呼んで来なさい」と仰ったのです。イエスは立ち止まることで、目の不自由なバルティマイと同じ場所に立ち、バルティマイの深い深い悩みを、理解しようとしたのです。イエスだけが、「あの大声で叫んでいる人は、今何を思っているのかなぁ」と考えてくださったということです。

誰も立ち止まらずに、バルティマイを叱りつけて黙らせ、立ち去る危険性もありました。皆、イエスについて行くので精一杯だったのです。イエスに遅れたら、自分たちは今の時代に取り残される。イエスという流行の最先端に取り残されてしまう。乱暴な言い方かも知れませんが、そういう人々が群がっていたのです。

ところがイエスが立ち止まったことで、すべてが一変します。皆が立ち止まらざるを得なくなりました。イエスが先に行かないのですから、イエスとともに立ち止まらざるを得ません。なぜ目の不自由な人1人のために足を止めるのか理解できていませんが、すべての人の目がイエスとバルティマイに注がれます。

バルティマイは、イエスが立ち止まってくださったことを誰よりも早く気づいたはずです。皆、イエスにくっついて動いている人々ですから、イエスが立ち止まったことで、全員が立ち止まり、自分に目が向いていることが手に取るように分かったのです。この時点でバルティマイにはイエスが見えていなかったわけですが、イエスの存在は手に取るように分かっていました。

誰も立ち止まらなかった中で立ち止まってくださったイエスは、目の不自由なバルティマイと顔と顔を合わせて話します。「何をして欲しいのか。」(51節)こんなことを言っていいか、確信はありませんが、バルティマイはイエスの「何をして欲しいのか」という声を聞いただけで満足だったのではないでしょうか。あとの結果がどうであれ、バルティマイは十分満たされていたのではないでしょうか。

なぜかと言うと、イエスは自分のために立ち止まってくださったからです。日頃バルティマイは、誰かが立ち止まり、憐れんでくれなければ生きていけない存在だということをいやというほど思い知らされていました。今日もイエスと、イエスを取り巻く群衆が通り過ぎました。通り過ぎて終わる危険もありました。その心配を覆して、イエスは立ち止まり、心を配ってくださったのです。

バルティマイは誰にも言ったことのない願いを打ち明けます。「先生、目が見えるようになりたいのです」(51節)。誰にも言ったことがなかったはずです。これまで出会った誰も、目が見えるようにはできないからです。憐れんでくれることはできても、憐れみを受ける状態から解放し、自由にすることはできないからです。

この、生まれて初めて打ち明けた願いに、イエスは応えてくださいました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(52節)ここにもすばらしいやりとりがあります。マルコ福音書によれば、イエスは「よろしい。見えるようになりなさい」とは言ってないのです。バルティマイが、自分の不自由な目をいやしてくださるのはイエスしかいないと信じていたこと、ここに彼の深い信仰を読み取って、「あなたの信仰があなたを救った」と、宣言してくださったのです。

最後の最後、今日の福音朗読箇所の結びも、今年あらためて読み返すと感動的だなぁと思いました。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(52節)家に帰ったわけでもなく、自分の行きたいところに自由に出かけることにしたのでもなく、なお道を進まれるイエスに従ったというのです。

イエスが先を急いでいる道とはどのような道でしょうか。それは、エルサレムへの道です。3度、ご自分の死と復活を予告なさった運命の場所です。その道に、バルティマイは従ったというのです。それはつまり、バルティマイがこれから残りの人生を使って、わたしを救ってくださったイエスを知るために、同じ場所に立ちたいと決意したということなのです。

今日の説教の最初に言いましたが、誰かのことをより深く知ろうとするためには、その人の立つ場所に立たなければなりません。かなり早くから大波止に来る人を知るためには、それと同じくらい早くから大波止で待ってみる。バルティマイを知るためには、バルティマイの立っている場所に足を止める。そして、イエスがどんな方かを知るためには、イエスが最期を遂げるエルサレムに、一緒に立つ必要があるのです。

バルティマイの行動は、わたしたちにも考えるきっかけを与えてくれます。わたしたちはイエスへの信仰を確かに持っていますが、わたしにとってイエスはどんなに大切なお方であるか、それほど突き詰めては考えてないかも知れません。つまり、イエスが立っている場所まで行って、わたしのことをイエスはどれほど大切に思ってくださっているか、確かめるまでは動いていないのです。

わたしたちは自分の置かれた生活の場所があります。それぞれ、違った生活の場所です。しばしばわたしたちは、この自分の置かれた場所からイエスを見つめているのです。イエスが先を急いでいても、イエスが「わたしはエルサレムに行く」と言っても、その場所まで行きますとは言わずに、自分の生活の場所から眺めるだけで終わっているのです。

これは問題です。あの人は何を今考えているだろうか。とことん知ろうとするならついて行くはずです。同じように、わたしたちはイエスがわたしたちをどれほど愛してくださっているのか本当に知りたければ、イエスが行かれる場所に従うべきではないでしょうか。

ミサの中で、次のような言葉があります。「主よ、あなたは永遠の命の糧。あなたを置いて誰の所に行きましょう。」これは聖体拝領の前の信仰告白です。足を止めて、救いを求める人の心に寄り添ったイエスをもっともっと深く知るために、聖体拝領前のこの信仰告白を思い出しながら、イエスに従う決意を新たにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
諸聖人
(マタイ5:1-12a)
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