主日の福音09/10/11
年間第28主日(マルコ10:17-30)
手放したくないものを手放してイエスに従う

今週の福音朗読箇所は、皆さんもよく知っている箇所ではないかなぁと思います。ある人が「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(17節)と尋ねる場面から始まり、その人がどんな結末を迎えるかも、よく記憶しているはずです。

ただ、十分知っている場面であっても、味わってみる部分は残されています。たとえば、わたしたちは、イエスに永遠の命について尋ねた人が、「たくさんの財産を持っていた」(22節)ことを知っています。

ところが、この人が金持ちであったことは、最後の最後に明らかになった事実です。つまり、前もって、「金持ちの人の質問だ」と決めてかからないほうがよいということです。彼は「何をすればよいでしょうか」と尋ね、イエスが十戒を示したとき、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(20節)と答えています。

金持ちであるかどうかが、前置きになっていないと分かれば、この人の質問は実はわたしたちの質問なのだと考えることもできます。わたしたちもイエスに、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねたいし、その答えを聞きたいのです。

物語に登場する人の答えに、注目ましょう。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」彼は、あと一言、何かを言いたいのではないでしょうか。「そうなんだぁー。十戒を守っていればよいのですね。だったら安心です。」そんな意味でしょうか。

そうではないはずです。彼はイエスの答えを聞いても依然として不安なのです。なぜなら、彼にとって十戒を守ることは当然のことであって、そのレベルであれば、ここに居合わせている皆が、永遠の命にたどり着けるわけです。

同じ場面が、マタイ福音書にも収められています。第19章ですが、そこではこれまでの返事に、あと一言、付け加えられています。「まだ何か欠けているでしょうか。」(マタイ19・20)これは考えるヒントになるはずです。

「まだ何か欠けているでしょうか。」この通りに彼が言ったかどうかは分かりません。もしかしたらマタイの追加かも知れません。それはともかく、あと一言付け加えたかったに違いないという考えは、マタイ福音書から十分伺えます。

彼は特別でありたかったのでしょう。あとで分かるように、たくさんの財産を持っていましたから、周りの人には決してできない大きな依頼をイエスから託されてそれを成し遂げ、うらやましがられて永遠の命を受け継ぐ者と認められたかったのかも知れません。

あるいは、どんなにあら探しをしても塵一つ見つからない。それほど十戒を忠実に守っていることを、人々の前で讃えてもらいたかったのかも知れません。いずれにしても、イエスはこの人が期待していることに反応しませんでした。代わりに、この人が期待していないことを求めます。イエスはこの人に、いちばん手放したくないものを手放すようにと求めたのです。

わたしはあえて、「いちばん手放したくないもの」と言ったのですが、それにはわけがあります。この物語で登場した人は、たまたまたくさんの財産を持っている人でした。そのためイエスは、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21節)と求めました。

条件が変われば、イエスの求めるものは変わってくるのではないでしょうか。旧約聖書を思い出しましょう。神はアブラハムに、イサクをいけにえとしてささげなさいと命令しました(創世記22章)。

アブラハムもきっと、たくさんの財産を持っていたことでしょう。けれども神は、財産には目もくれず、愛する一人息子をささげるように要求したのです。もちろん、イサクはアブラハムにとって「いちばん手放したくないもの」です。

また、列王記の中に、ソロモンの知恵を示す物語として、自分たちの間を裁いてほしいとやって来た2人の女性の話があります。同じ家に住んでいた2人の女性が時期を同じくしてお産をしましたが、一方の母親が眠っている間にうっかり自分の赤ん坊に寄りかかり過ぎて赤ん坊を死なせてしまいました。

母親は赤ん坊を取り替えて、生きている赤ん坊を自分のものにしようとたくらみます。当然、本物の母親が黙っているはずがなく、訴えに出たのです。そのとき、ソロモンが試しに「生きている子を2つに引き裂き、1人に半分を、もう1人に他の半分を与えよ。」(1列3・25)と命じたのです。

赤ん坊をまんまと取り替えようとしていた母親は、それがいいと主張したのですが、生きている子の実の母親が、その子を哀れに思うあまり、「王さま、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」と言ったのです。ソロモンはすぐに、どちらが生きているこの実の母親かを宣言しました。

列王記のこの物語では、実の母親はわが子の「命」こそが、「いちばん手放したくないもの」でした。体が引き裂かれてしまえば、その子の命は消えてしまいます。そのため、泥棒と呼びたいほどの女性にわが子を託すことさえも辞さなかったのです。人によって、「いちばん手放したくないもの」は、それぞれ違ってくるのではないでしょうか。

そこで、わたしたちに当てはめて、今日の福音朗読箇所を考えてみましょう。いったい、わたしたちにとって、「いちばん手放したくないもの」とは何なのでしょうか。

名誉・名声を手放したくない。それを守るためなら、人をけ落としても構わない。そういう人もいるでしょう。人からどんなに笑われても、自分を見放さなかった親友を選ぶという人もいるでしょう。何か、自分だけの「いちばん手放したくないもの」があるのではないでしょうか。

先週月曜日から水曜日にかけて、教区の広報委員が全国から集まる年に1度の研修会に参加してきました。わたしは一人の人に会い、話を聞いて大変感銘を受けました。その人は、それまで積み上げてきたものをすべて失い、いちばん手放したくないものを手放さなければならなくなりました。

当たり前のことですが、「いちばん手放したくないもの」は手放したくないのです。けれどもその人は、いったん手放し、まったくの身一つになって、そこから新たに出発することを選びました。その、大切なものを手放し、一からやり直して今に至っている話を聞かせてもらい、偉いなぁと思ったのです。心が洗われました。

もし仮に、いちばん手放したくないものを手放したとき、わたしたちには何が残るのでしょうか。きっと、何も残らないのだと思います。けれども、何も残らないはずの、その人の「すべて」を満たしてくださる方がおられるのです。過去も未来も失ったその人に、「今から、わたしに従いなさい」と言って、未来を用意してくださる方が、おられるのです。言うまでもありませんが、イエス・キリストだけが、それを可能にするお方です。

わたしたちは、このイエス・キリストを信じて生きていきましょう。たくさんの財産を持っていた人は、過去も未来も失うことになると恐れ、立ち去ってしまいました。

わたしたちは、イエスを信じたいと思います。「いちばん手放したくないもの」を手放して、希望を失ってもなお、イエスはわたしに未来を約束してくださるお方なのです。
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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(マルコ10:35-45)
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