主日の福音09/09/27
年間第26主日(マルコ9:38-43,45,47-48)
あなたの中の「当たり前」を切り捨てる

金曜日に全国版のカトリック新聞を読んでいたら、「2009年10月11日に福者ダミアン神父が列聖される」という記事が新聞の見開きで掲載されていまして、びっくりしました。びっくりした理由は2つあって、1つは、このダミアン神父の列聖式が10月11日だというのに、わたしは9月25日の新聞を読むまで全く知らなかったということです。

わたしが知らなかっただけで、たとえば長崎教区の広報委員は知っていたかも知れないと思って尋ねてみると、2人の教区広報委員も全く知らなかったそうです。中央は、もう少し広報活動をしておいても良かったのではないかなぁと思います。

ダミアン神父について少しだけ紹介しておきますと、かつて病名がらい病と呼ばれていた、ハンセン病の人々に奉仕するためにベルギーからハワイのモロカイ島に宣教に行き、そこで病人の方々と共に暮らし、最後には自分もハンセン病になって、命をささげつくしたのでした。

そこでもう1つの疑問になるのですが、これだけのことをした立派な方が、福者になり、聖人になるのに120年もかかっています。なぜそんなに長い時間がかかったのだろうか、そのことも不思議に思いました。福者に上げられてからも列聖まで15年もかかっています。長い道のりなのだなぁと思いました。

ついでに、ダミアン神父についてもう少し皆さんに親しみを持ってもらうために、こぼれ話をしたいと思います。日本の有名な彫刻家で、舟越保武さんという方がおられました。西坂の、26聖人像を制作した方と言えばおわかりでしょう。この方が、かつてダミアン神父の銅像を制作したのですが、長崎で去年だったか、舟越保武展が開かれたときにそのダミアン神父像も展示されていました。

顔はできものだらけ、目もくり抜かれたようになっていましたが、迫力満点の銅像で、引き寄せられる魅力を持った像を見ることができました。このダミアン神父像と関連しての話ですが、舟越先生がイメージをふくらませる1つのきっかけになった話があります。

ダミアン神父は、モロカイ島のハンセン病患者のためにミサを捧げたり教えを説いたりしていたわけですが、ダミアン神父が健康だったときには、「あなたたちは」というような呼び掛けをして説教をしたり教えを説いたりしていたそうです。それが、彼自身がハンセン病になり、病を通じて自分も同じ兄弟姉妹になったと感じたときから、「わたしたちは」と話し掛けるようになったそうです。

比べるとはっきり分かりますが、「イエスの呼び掛けに答えて、あなたたちもこのようにしましょう」と話すのと、「イエスの呼び掛けに答えて、わたしたちもこのようにしましょう」と話すのでは、断然「わたしたち」と呼び掛けたほうが親しみがわきます。この境地に、ダミアン神父は病を得て、たどり着いたわけです。

さて話が長くなりましたが、このダミアン神父の偉大な宣教の足跡は、今日の福音朗読箇所を味わうのに役に立つと思います。イエスは、「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」「もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい」と厳しい要求をしています。

ダミアン神父がこのイエスのみことばを頭に置いて行動していたかは分かりません。ですが結果として彼は、ハンセン病の人々により近くいて宣教するために、自らの健康を捨ててしまって、同じ病気になることも受け入れて、人々の中、その心のいちばん深いところに、飛び込んでいったのだと思います。

健康だったときは、たとえばルカ福音書の「今泣いている人々は、幸いである」「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」(6・21,22)というような箇所は、ダミアン神父から語りかけるイエスのみことばであって、ダミアン神父も一緒に味わうイエスのみことばにまで変化していなかったかも知れません。それが、同じ病を与えられたことで、変わるきっかけを得たのでした。

ダミアン神父のような経験はなかなかわたしたちの人生には起こらないかも知れませんが、イエスが招いている幸いな生き方に入るためには、わたしたちもつまずきとなるもの、妨げとなっているものを取り除かなければなりません。

イエスが「切り捨ててしまいなさい」と言ったのは、常識的に考えれば両方あって初めて当たり前に機能する身体の一部分です。手や足や目は、片方あればまぁ何とかなるという代物ではありません。

それほど重大なものでも、場合によっては、わたしたちがイエスの示す幸せにどうしてもたどり着けなくなるのであるなら、未練を残さず、捨てなさいと言っているのです。どんな理解の仕方をすれば、このようなことができるようになるのでしょうか。

わたしたちの暮らしに、もはやなくてはならないものはいくらでもあります。水道、電気、ガス。こうした便利なものを、もし手放すことになるとしたら、どんな理解の仕方が役に立つでしょうか。また、バス、電車、船も、わたしたちの生活を最低限保証するために必要なものです。それらを永久に手放すことになるとしたら、どのように納得させたらよいでしょうか。

なかなかうまく言い当てることができませんが、イエスの呼び掛けに答える1つの理解の仕方は、「当たり前と思っている、その思いを捨てなさい」ということかなぁと思いました。「両手、両足、両目が与えられている。そんなこと当たり前じゃないか。」この思いがあなたのつまずきになっている。切り捨ててしまいなさいということです。

どんなに当たり前に思えることでも、与えられていることに感謝できるようにしておくべきです。当たり前と思ってしまうと、わたしたちにおごり高ぶりの誘惑が忍び寄ってきます。おごり高ぶりは、差別、偏見のもとになり、人をつまずかせることになるのです。

つまずかせる人に示された罰を思い描いてみましょう。「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(9・42)ついでですが、わたしも一度だけ、この罰を思わせるような怖い経験をしました。朝、目が覚めたとき、首が全く言うことをきかず、起き上がることができなかったことがありました。

もう2度とあのような思いはしたくありませんが、まさに石臼を首に懸けられているような気分でした。どうしても体を起こすことができず、腰から下を何とかベッドからずらして足を床につけ、体をひねって腹ばいになり、ベッドに手をついて床に正座したのです。あの朝は、もう一生起き上がることができないのではないかと思うくらい恐ろしい経験でした。

わたしたちは、偏見や、差別など、つまずきを与える考え方を知らず知らずに抱いている可能性があります。ないとは言い切れません。恐らく動物が挽く「大きな石臼」が実際にどれほどの大きさか、想像してください。その石臼を、イエスはつまずきを与える人の首に懸ける権限を与えられているのです。

ぜひ、わたしが本当に偏見や差別を持たずに人に接しているか、切り捨ててしまわなければならない悪い習慣を持っていないか、考えてみたいと思います。もし先延ばしにすれば、切り捨てる機会を失うかも知れません。
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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(マルコ10:2-16)
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