主日の福音09/09/20
年間第25主日(マルコ9:30-37)
まず「あと1人」に仕えてみる

先に、13日の教会周辺の清掃と、敬老会についてねぎらっておきたいと思います。13日の清掃は、当日出席が難しい人が結構出た中で、本当によくやってくれました。7月26日が中止になってからずいぶん経っていたので、機械が入れないほど伸びていたにもかかわらず、献身的に協力してくださった皆さんに感謝します。

また、19日の敬老会は、これまた多くの人の気持ちよい協力によって、予想よりもずっと楽しい会になりました。演目が予定よりも増え、わたしもしたいわたしもしたいという状態になって、しかも切り替えもだいたいスムーズに行われたおかげで、12時に無事に終わることができました。

この場にいませんが、踊りの会の方々、園児の皆さん、デイサービス「ふるさと」の方々はじめ、協力くださったすべての方に感謝申し上げます。何よりも、今年も敬老会を楽しみにして出席してくださった招待者の方々に、御礼申し上げます。

では福音の学びに入りましょう。今週の福音朗読でイエスは、「いちばん偉い者」についての意味深い教育を弟子たちに施しています。「いちばん先になりたいものは、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(9・35)上に立つ人になるよりも、すべての人の後に仕える者になることのほうが、本当に偉い人なのだと言い切っています。

そこで、「上に立つことを目指す工夫」ではなくて、「すべての人に仕えるための工夫」を考えてみたいと思います。どのようにしてそれは可能でしょうか。

考えるヒントとして、司祭が2人いて、ミサをささげてくれている時を想像してください。2人の司祭のうち、どちらかは祭壇の中心に立って、主司式を務めます。もう1人の司祭は、主司式の司祭の右か左に立って、一緒にミサをささげます。

そばで一緒にミサをささげる司祭をよく観察すると、しばしば、侍者と同じような手伝いをしているのを見ることがあると思います。たとえば、パンとぶどう酒の奉献を準備する中で、侍者が1人しかいない場合、司祭が侍者と一緒に手伝うわけです。

ぶどう酒と水を1人の侍者が持つ代わりに、そばにいる司祭がぶどう酒を持ち、侍者は水を持つ。あるいは中央の司祭が手をすすぐときに、脇の司祭が手洗いの水を持ち、侍者が手ふきを持つ。司祭が2人いてミサをしているときは、こういう場面がしばしば見られます。

問題は、2人の司祭の本来の立場と、そのミサの中での役割が逆転しているときです。たとえば、主任司祭と助任司祭が一緒にミサをしていて、その日は助任司祭が主司式をしているとします。そうすると、主任司祭が助任司祭のためにぶどう酒を渡したり手洗いの水を持ってあげたりするわけです。

皆さんは、どう思われるか分かりませんが、そういう時って助任司祭はものすごく緊張しているんです。知らなかったでしょう?主任司祭が、30歳にもならない新米司祭のためにぶどう酒を差し出してくれたり、手を拭くために手ぬぐいを持ってくれる。こういう時主任司祭は敬虔な面持ちでお仕えしてくれています。そういうお顔を見ればますますなのですが、助任司祭は緊張するものなのです。

わたしはその経験を2つの教会で通ってきました。浦上教会では、平日のミサは当番で主司式をする役割が回ってきます。新米のわたしが主司式をすれば、ほかの先輩司祭はそばにいて仕えてくれるのです。滑石教会の時もそうでした。主任神父さまが、わたしのそばでぶどう酒を持ってくれたり、手洗いのための器を持ってくれたりして仕えてくれたのです。

わたしはあのときの体験を思い出しながら考えるのですが、わたしが指導を仰いだ2人の主任司祭が本当に偉い人だったなぁと思わせるのは、上に立つ場面でそのように感じさせたのではありませんでした。主任司祭ですから、当然上に立つ場面はいくらでも出てきます。

そうではなくて、主任司祭でありながら、まだ見習いに過ぎない助任司祭が主司式をしているミサでそばに立ってミサをささげているときに、かいがいしく世話を焼いてくれる姿に、わたしは感動を覚えたのです。

ある時はこんなこともありました。主任と助任の関係ではありませんでしたが、大先輩の司祭と一緒にミサをささげた時のことです。その日、たまたまわたしが主司式をしていたのですが、福音書の朗読に、大先輩が向かおうとするとき、司式の司祭が座る椅子に就いているわたしに、「祝福をお願いいたします」と言ってひざまずいたことがありました。

皆さんも、大司教さまが主司式をしておられるミサで、福音朗読をする司祭や助祭が大司教さまの前にひざまずくのは見たことがあると思います。そのように、大先輩がわたしの前にひざまずいて祝福を求めたのです。

「主の福音を告げるために、全能の神が、神父さまを祝福してくださいますように。」わたしはかろうじて、それだけの言葉をひざまずいている大先輩司祭の前で唱えました。わたしの足は震えていました。それは恐ろしさから来る震えではなく、いわば聖なる場面に立たされてその崇高さに震えたということです。若造に過ぎない、わたしの前にひざまずいている大先輩司祭を見たときに、聖なるものを見た気がしたのです。

こうした経験から、1つわたしにも言えることがあります。「すべての人に仕える者になりなさい」とのみことばを実践する確かな方法は、「今日、あと1人に仕えてみる」という姿勢だと思います。主任司祭が、当番で主司式を果たしているひよっこの助任司祭に嬉々として仕えているのは、「今日、あと1人に仕えてみる」という最高の模範だと思いました。

朝、目が覚めてから、あなたはきっと多くのことで人に仕えて1日を過ごしてきたことでしょう。ほぼ1日が終わろうとしている時間になれば、あなたは「あーやっと終わった」と、胸を撫で下ろしていると思います。もう、仕える必要はない。自分の好きなようにできる時間になった。そう思っている瞬間に、考えて欲しいのです。「今日、あと1人仕えてみる。」

今日果たすべき事を終えたあなたに、「あと1人仕える」ということは納得できないかも知れません。その必要を理解できないかも知れません。けれども、イエスが「いちばん先になりたいものは、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と仰っているのを実現させる時間は、すべてが終わったと思っているその時から始まるのではないでしょうか。

今日すべき事はすべて終わった。だから、わたしはもう誰に仕える必要もない。そう思っているときに、「あと1人に仕えてみる」それが、あなたをすべての人に仕える姿に造りかえてくれるのだと思います。

助任司祭を抱えて指導してくれた先輩の神父さまは、わたしの見る限りたくさんの若い司祭をご自分のもとに受け入れ、鍛えてくれました。おかげで、長崎教区の今の中堅司祭が存在するのだと思っています。

それと同時に、この大先輩の神父さまは、巣立っていくまで教育したそのすべての若い司祭に、ある場面では仕えてくださっていたのです。わたしはそのことに今ようやく気がつきました。

人の上に立つことの多かったその神父さまたちの何が偉かったかと言って、それは、見えないところで仕える人であったということだと思います。人の上に立つことは、自分にその気がなくてもその場に立つことはできます。けれども、人の上に立つ身分の人が、人に仕えるというのは、心がけがなければ絶対にできないことなのです。

そこでわたしたち皆、「今日、あと1人に仕えてみる。」そういう心がけで今週を過ごしてみましょう。きっとその心がけが、イエスのみことば「いちばん先になりたいものは、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」の意味を分からせてくれるきっかけになると思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(マルコ9:38-43,45,47-48)
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