主日の福音09/09/13
年間第24主日(マルコ8:27-35)
信仰告白は表明した瞬間から深まっていく

土曜日に、大浦天主堂を結婚式のためにお借りして、一組のカップルの結婚式をしました。馬込教会のミサの参加者には、実際に結婚式に出席した人もいるかも知れません。その結婚式の説教で、結婚する2人に次のような話をしました。

「人は、完成に向かって進んでいく生き物です。まず初めは、お腹の中の赤ちゃんです。赤ちゃんはお腹の中で、自分の体の完成のために進み始めます。まだ、社会とのつながりも始まっていませんが、体の完成のために、お母さんの愛情の中で着実に進んでいきます。」

「次に、この世に生まれ落ちると、その時から人生の完成のために進み始めます。しつけを学び、教育を受け、基礎を固めてもらいます。あとでは仕事に就き、自分で生活するための糧を得るようになります。」

「そして、自分の人生の完成の中に、今日の結婚式もあると思うのです。配偶者を見つけ、この人と、自分たちの人生の完成に向かって力を合わせて進んでいきます。あるいは、必要なときにお互いに助け合って、人生の完成のために協力を惜しまないのです。」

「結婚した夫婦に、『結婚して良かったですか』と尋ねるとしましょう。結婚したての夫婦が『結婚して良かった』と答える場合と、結婚10年目の夫婦が『結婚して良かった』と答える場合とでは、その答えは重みも、深みも明らかに違いがあると思います。結婚生活10年のうちには、困難を解決する経験も積んだことでしょうし、喜ばしい出来事にもたくさん出会ったはずです。『結婚して良かった』という言葉には、はるかに重みがあると思います。」

「さて、こうしてたくさんのことをきっかけに人生を完成させようと進むのですが、人間は人間の力だけで人生を完成できるものなのでしょうか。わたしはそうは思いません。人間が、その人生を本当の意味で完成させるためには、信仰心がどうしても必要だと思うのです。わたしはカトリックの司祭という立場で話していますので、人生を完成させるためには、神の導きと照らし、力が必要だと思うのです。」

「もちろん、すべての人がキリスト教を信じているわけではありませんので、それぞれの信仰の中で結構ですが、信じているお方と、親しいつながりを保って、人生の完成のために力を願う、つまり祈りを通して力をいただくようにしましょう。夫となる○○さんは、カトリック信者ですから、これからも教会とのつながりを保ち、家庭での祈りを忘れないようにして、神に人生の完成のための大きな導きを願うようにしてください。」

ざっと、こんな話をしました。人は、完成を目指して、自分の人生を歩いている。これが昨日の結婚式の説教の中心点でした。実は今週の福音朗読を読み解くために、今紹介した話を使いながら学びを得たいと思うのです。

イエスは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねました(8・27)いろいろな声を弟子たちは耳にしていたようです。そしてイエスは、さらに踏み込んで尋ねます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが代表して答えます。「あなたは、メシアです。」(8・29)

このペトロの信仰告白を、最初に話した結婚式での説教、「人は、人生の完成に向かって進んでいる」ということに照らして考えてみたいのです。つまり、ペトロの人生の中で、あのペトロの信仰告白は、どういう意味を持つだろうか、ということを考えたいのです。

ペトロは、イエスと3年間行動を共にしてから、その後おそらく35年くらいは生き続けました。ローマで殉教したのが68年か69年で、イエスの死と復活の出来事がおよそ30年の頃に起こったとすれば、35年くらいは生きたという計算になります。このペトロの人生の中で、「あなたは、メシアです。」という信仰告白は、きっと完成に向かって、より洗練された意味を持ち、初めてイエスに信仰告白したときよりもはるかに重みのある、深まりのある答えになっていったと思うのです。

それは、たとえとして話した「あなたは結婚して良かったですか」という答えに、新婚の夫婦が答えるのと10年共に歩んでから答えるのとでは重さが違うというのと同じです。ペトロの信仰告白「あなたは、メシアです。」というイエスへの単純な答えも、その後の35年以上の人生の中で、深まっていったと思うのです。

わたしは今、ペトロの信仰告白について話したわけですが、信仰告白が深まっていかなければならないのはペトロに限ったことではありません。わたしたちもまた、イエスを信じる弟子なのですから、イエスへの信仰を告白し、その信仰告白が人生の歩みの中で完成に向かっていかなければならないと思うのです。

わたしたちは皆、イエスを信じる弟子ですが、その生き方はさまざまです。家庭の中にある人、一人暮らしの人、さまざまです。社会にあって信仰を守っている人もいれば、生活のすべてをイエスへの信仰のために明け渡している修道者や聖職者もいます。それぞれの置かれている場があるのです。その中で、一人ひとりは何かの信仰告白をイエスに表しているはずです。

たとえば、「朝晩、必ず祈りをしないと、何だか落ち着きません。」という人がいるでしょう。あなたは、イエスに向かって、「朝晩、必ず思い出すお方です」と信仰表明しているわけです。この信仰は、どの程度深まっているでしょうか。どの程度の重みを、今持ち続けているでしょうか。

朝晩忘れないと言っても、眠たいときは忘れますという程度でしょうか。それとも、わたしが酸素マスクをする羽目になっても、それでも忘れませんという程、真剣なものになっているでしょうか。イエスに対するあなたの思いは、ほんの少しでもいいから、完成に向かっているでしょうか。

また、わたし自身に当てはめると、イエスとの関わりは「24時間、切っても切れません」ということになるでしょう。朝早くであろうが夜中の1時であろうが、急な事態が発生すれば求められたところに飛んで行きます。飛んで行きますが、すべてを置いて飛んで行くか。そこまで深まっているか、重みが増しているかと自分に問うと、もしかしたら完成に向かう途中でわたしの信仰告白は停滞しているかも知れません。

どういうことかと言うと、現実問題、いろんな予定や計画がわたしの手帳には書き付けられていますから、その予定や計画を調整して、うまくやりくりして緊急事態の場所に行っているというのが実情です。すべてを横に置いて行く、イエスのために、いっさいを横になげうつ。そこまで完成されていないのです。

こうしてみると、すべての人がペトロの信仰告白を聞いて、自分自身に当てはめて考える必要があると思います。ペトロはイエスに、「あなたは、メシアです。」と信仰を表明して、その信仰告白はその後のペトロの人生の中で深まっていった。わたしはどうだろうか。この点を、今週は考えてみたいのです。

すべての人が、完成に向かって人生を歩んでいます。そしてすべての人が、自分の力だけでは人生を完成できません。イエスに、わたしたちの信仰告白が一歩でも二歩でも完成に向かって進むように、照らしと導きを願いたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(マルコ9:30-37)
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